連載コラム「言葉処」

言葉処 其の100「モッタイナイ」

ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが来日したときにもっとも感銘を受けた言葉は、「モッタイナイ」だったそうだ。「勿体」は「物体」という意味で、「勿体ない」は「惜しい、恐れ多い」ということだが、物だけでなく、長く日本人を支えてきた文化こそ捨ててはモッタイナイ。しかし、戦後の欧米化の流れの中で、多くの日本文化や言葉がなくなった。

平等という幻想によって「分際」は死語になったが、権利は平等でも結果は不平等だから、努力もしないで他人を羨むのは「分を知れ」だろう。「問答無用」も同様。昔は「嘘をつくな」といったことは「問答無用」の一言で片付けたが、何でも話し合いの民主主義がこれを阻害した。大人に「問答無用」では横暴だが、躾に説明は不要。すれば、しなくていい屁理屈が無限に出てくる。

エッセイストの藤原正彦氏の父、つまり新田次郎氏は、正彦氏がケンカをすると、その是非は問わず、やり方が卑怯かどうかだけを問題にしたそうだ。言われてみれば、昔は「卑怯だぞ」という言葉には相当の権威があった。卑怯かどうかが物事の判断基準だったわけだ。この時代には、武士が恥をかかずに生き抜く心構えを書いた『葉隠』の精神がまだ残っていたのかもしれない。

欧米人からすると、恥を恐れて消極的になる日本人がもどかしかったのだと思うが、一神教でいう神を持たない日本人は恥で行動を律してきたから、それを取り除いてしまうと際限もなく恥知らずになってしまう。かといって昔のほうがすべていいわけでもないが、ジベタリアンなどを見ていると、日本人が思い出すべきは「モッタイナイ」より「ミットモナイ」のような気もする。(黒

※連載コラム「言葉処」は今回の100回をもって終了し、次回から隔週(火曜更新)で「TK-プレス~添削講座通信」、「YONDA-HON小説抄」が始まります。末筆ですが、「言葉処」に共感の声を寄せていただいた多くの皆様、ご愛読いただいた皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます(黒)。

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言葉処 其の99「誤読恐怖症」

誤読されそうで使うのをためらってしまう言葉がある。たとえば「目のあたりにする」は「めのあたりにする」と読まれそうで嫌だ。「一月(ひとつき)」も「いちがつ」と読まれそう。「お札を持ってお札を買いに行く」前者は「さつ」、後者は「ふだ」。「床を上げて床を拭く」前者は「とこ」、後者は「ゆか」。「人気の店だが人気がない」前者は「にんき」、後者は「ひとけ」。区別できた?

「幕間」「山間」と書くと、「まくま」「さんかん」と読んでしまう人も少なくない気がする。「幕間」は「まくあい」と読み、「山間」は「さんかん」でも誤りではないが、訓で読む場合は「やまま」ではなく「やまあい」だ。ただ、「間(あい)」は常用漢字の表外音訓だから、新聞では「幕あい」「山あい」と交ぜ書きにされ、それでますます「間=あい」と読めなくなってしまっている。

「体をなさない」の「てい」も「からだ」と読まれそう。「競売」は「きょうばい」だが、差し押さえられた家などの場合は「けいばい」と読み、「施行」と「施工」は「試行」との発音上の混同を避けるためそれぞれ「しこう」とも「せこう」とも読む。「重複」「早急」「憧憬」は「ちょうふく」「さっきゅう」「しょうけい」と読んでほしいが、だからってふりがなを付けるのもまぬけだ。

「父の如くあれ」と言われ、父親を真似て煙草を吸ったら叱られた、といったように、一つの言葉が相矛盾する意味を持つことをダブルバインドと言い、その環境から逃れられないでいると精神を病んで、意味に偏執するなどの症状がでるとベイトソンは言っている。ならば言葉に拘りたがる人種、編集者はみな病気か。編集という言葉も偏執(ヘンシュウ)からきてるとか?(黒)

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言葉処 其の98「居酒屋って、酒屋が居る店?」

ある居酒屋には「酒可飲百薬長」と書かれた額があり、店主に「読める?」と聞かれたどこかのおっさんは、「酒は飲む可(べし)、百薬ノ長」と書き下してみせた。しかし、その隣に書いてあった「女可愛無上愉」のほうは、なぜか「女は可愛い、無上の愉しみ」と読んでしまった。むろん、「女はかわいい」ではなく「女、愛すべし」だろう。酔っ払っていたのか、それともシャレか。

動詞を含む二字熟語を書き下す際、一番多いのはレ点がつくタイプ。たとえば、「読書」は「書を読む」だからBAする」。「乗車」は「車に乗る」だからBAする」。「立春」は「春が立つ」で「BAする」。一方、「雷鳴」は「雷が鳴る」で「ABする」だが、これがなぜ「鳴雷」でないかは分からない。「来襲」と「襲来」どっちもアリのように、規則性はないのかもしれない。

ややこしいのは、似た言葉でも熟語の成り立ちが違う場合。「集金」は「金を集める」であって「集めた金」ではない。逆に「残金」は「残った金」であって「金を残す」ではない。そうかと思えば「借金」のように二つの意味がある例もある。「借金を返す」の「借金」は「借りた金」というモノを指しているが、「借金で首がまわらない」の「借金」は「金を借りる」というコトを指す。

「材木」は「材料となる木」で「木材」は「木の材料」だからあまり違わないが、「習慣」は個人的で、「慣習」は一般的だから範囲が広がり、「牛乳」と「乳牛」では指すものが違う。また、「居酒屋」は「酒が居る店」ではなく「居られる酒屋」だろう。子供の頃、「喫茶店」は「喫煙しながら茶を飲む店」だと思っていたが、これは「茶を喫する店」であり、タバコとは関係なかった。(黒)

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言葉処 其の97「妥協なき言葉選び」

本多勝一は『実戦日本語の作文技術』の中で「球技等の芝生をいためる行為は厳禁する」という看板を問題にしている。助詞「は」には限定の意味があるから、芝生をいためない行為ならいいと読めるのではないかと。この場合は「……行為を厳禁する」とするか、「……行為はこれを厳禁する」のように「を」を使えば誤解がない。それにしても一文字で意味が変わるとは、言葉は怖い。

ある広場には「集会、催しなど、周囲に迷惑をかける行為を禁じます」という看板があった。なんの問題もないが、「催し」という言葉があまりにも楽しげで、文意とギャップがあるような気がした。もちろん、ここで言う「催し」とは、数人で花見をしたり、句会を催したりということではないと思うが、「催し」と聞いて、ついそんなような和やかなイベントを想像してしまった。

20年前、バスの中で「危険ですので窓から手を出さぬよう、特にお子様にはご注意下さい」という掲示を見た。「出さぬようご注意」だと、無意識に出すことに注意を促しているような気もするし、「お子様にはご注意下さい」のほうは一瞬「何に?」と思う。きっと言葉の重複を避けようとして、かえっておかしなことになってしまったのだろう。ちなみにこの掲示、今はもうない。

井上ひさしは「机にこびりついてばかりいないで」と言われ、「それを言うなら『へばりついて』だ」と家人に訂正したそうだ。井伏鱒二は発表から数十年経た『山椒魚』の助詞を直し、結末を削った。遠藤周作は学生時代、「は」にするか「が」にするか迷って授業に遅刻した。さすがに第一人者。一文字とて妥協を許さないその言葉に対する厳格さは、どこか求道者のようだ。(黒)

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言葉処 其の96「合併市町村名」

市町村合併が促進された時代は過去3回ある。明治22年の「明治の大合併」と昭和30年前後の「昭和の大合併」、そして「平成の大合併」だ。合併に際しては数々の難題があるが、自治体名もその一つで、「南セントレア市」「中央アルプス市」など市民の反対で廃案となったものや、「知床市」「白神市」など近隣から「観光客を取られる」と中止を求められて廃案になったケースもある。

一番単純な新市名は「西東京市」「南相馬市」のように地域名に方角を付けたり、「春坂市」「東御市」のように合併町村名から字ずつ取るパターン。ただ、いささか安直。奇をてらってか「さいたま市」「みどり市」「東かがわ市」「にかほ市」などひらがな市も生まれたが、字面が安っぽいという批判もあった。その点、初のカタカナ市の南アルプス市」には言葉に力があって妙案だった。

「静岡市」との合併では「清水市」がなくなったが、地名の消滅や新市名への違和感が合併反対の根だったりもする。だからか「加美市」「郡上市」「養父市」(郡名)や「阿賀野市」「吉野川市」(河川名)、「飛騨市」「さぬき市」「丹波市」「京丹後市」(旧国名)など、もともと馴染みのあった名称を採用した例も。ちなみに「伊賀市」と「甲賀市」は忍者の里として交流しているそうだ。

茨城県には「つくば市」の隣に「つくばみらい市」が、埼玉県には「富士見市」の隣に「ふじみ野市」が誕生して物議を醸した。「府中市」(東京と広島)、「鹿島市」(茨城と佐賀)など同名の自治体も以前からあったが、近隣では紛らわしいかもしれない。だが、どんな名前にしろ、馴染むまでは違和感があるもの。いろいろ批判はあっても、孫子の代になるとそれが普通になる。(黒)

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言葉処 其の95「上下の基点はどこ?」

靴下って、靴の中にあるのに、なぜ「靴下」と言うのかと思った。「靴中」じゃないかと。「下」には、「下準備」「下書き」など「事前に」という意味や、「下士官」「下請け」など序列や順番が低いという意味もあるが、「靴下」や「下着」の「下」はやはり物理的な上下という意味だろう。ただし、この「上下」は垂直方向ではなく、体に近いほうが下。つまり、意味は中と同じだ。

日本語で「面前」と言えば衆人環視の状態だが、麻雀では「牌の面を自分に向けている」状態を言う。また、日本では「白線の内側に」と言うが、中国では「白線の外側に」と表現するそうだ。かくの如く上下や前後は基準によって変わり、関東では「上り線」は東京に向かう路線を言う。ただし、神奈川県川崎市と東京都立川市を結ぶ南武線は東京に向かうほうを「下り」と言う。

「下屋敷」というのは城から離れているほうの屋敷で、「下町」は地形的に下がっている町(東京の下町は「城下町」の略という説も)。また、律令時代の東山道は今の滋賀から長野経由で関東に入るので、先に着く群馬が「上野」、それから東に下った栃木が「下野」。今の千葉には湿原地帯だった江戸を避けて海路で行き、着いた順に南から「上総」「下総」と呼ばれるようになった。

越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)も都(この場合は奈良)に近い順。越後はさらに上越・中越・下越に分かれており、上越地方には上越市が誕生、上越駅も建設中だ。しかし、この上越駅は北陸新幹線である。上越新幹線の上越は上州と越後の頭文字であり、「都に近い越後」という意味ではないから、中越に上越国際スキー場があるというややこしいことになっている。(黒)

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言葉処 其の94「パパと呼ばないで」

妙齢の女性が「パパ」と呼んだところ、その場にいた男性たちが一斉に振り返ったことがあった。反射的に振り返ったのだと思うが、かつて「パパ」は幼児語であり、成人してそう呼ぶのは不適切な関係の男性だったから、「あの人たちは誰にパパと呼ばれているのか」と。同様に、親でもないのに飲食店の店主を「ママ」、街頭インタビューでは赤の他人を「お母さん」と呼んだりする。

自分の娘を「お姉ちゃん」、親を「おじいちゃん」と呼んだりするのは、最年少者からの呼称を家族全員がするから。また、日本語では兄弟、伯母・叔母など年齢による区別をするが、こうした背景には年長かどうかを問題とする儒教がある。この儒教のお膝元、中国・広東語では更に父方か母方も区別し、祖父母、おじ・おば、いとこ、孫などそれぞれ父方と母方で呼称が違うそうだ。

欧米では家族間でも名前や愛称で呼び、夫が妻をmomと呼ぶこともなければ、elder brotherのような区別もしない。米も英語ではriceだけだが、日本語では植えて「稲」、刈って「籾」、脱穀して「米」、炊いて「飯」と言い方が変わり、「米」は総称でもある。ところが、牛となると英語ではbullcowoxの三つの呼称があるが、日本語ではただ「牛」と言って雌雄は問題にしない。

英語で一人称はI、二人称はyouだけだが、日本語では「僕・私・俺・拙者・小生・朕/君・あなた・お前・貴様」など無数にある。一神教と違い、八百万の神を信じる日本人の場合は、世間との関係で人を捉えるからで、区別の数は必要性に比例する。ちなみに「彼」は古い言葉だが、「彼女」は明治時代にherの訳語として造語されたものなので、日本語としては浮いている。(黒)

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言葉処 其の92「野球とベースボール」

ベースボールのルーツは、アメリカで行われていたらラウンダーズだそうだ。このスポーツは、打って何点取れるかという競技で、投手は下手投げで好球を投げる。だから、いい球を見逃すと審判は「打てよ」という意味で打者に「ストライク」と言い、投手が悪球を投げると「打ちにくいよ」という意味で投手に「アンフェア・ボール」と言う。これが投球の「ボール」の語源。

攻守交替はワンアウトチャンジだが、打者は打球をノーバウンドで捕球されなければアウトにならないので、なかなか終わらない。154215」なんてこともざらにあり、だからベーベキューでもしながら日がなゲームに興じる。3時間以内に終わらないと近代スポーツとして発展しないと言うが、その意味ではラウンダーズはレジャーであり、このままではスポーツたりえなかった。

ベースボールは明治5年に日本に伝わり、正岡子規の先輩でもある中馬庚によって「野球」と意訳された。しかし、ルールも道具も海を越えたが、指導法まではない。そこで武道のやり方が模倣された。「試合前の礼」「グラウンド挨拶」「道具を大切にする」「グラウンドは神聖なものである」。みな武道からの借り物だ。特に社会教育を兼ねるアマチュア野球ではこれらが徹底される。

アメリカにおいてレスリングがプロレスになったように、アメリカ人は、受けるときは徹底して攻めさせ、攻撃となると派手にやるのが好きなようだ。アメリカンフットボールにも似たところがある。一方、武道では堅守が重視され、相手の良さを殺して瞬殺してもいい。“見せる”ことは想定の外だ。野球とベースボール、どちらもいいが、根底にある思想はまるっきり逆だ。(黒)

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言葉処 其の91「芸人言葉の妙」

タレントは言葉を商売道具としているだけに、その“発明”には感心させられる。曰く、白けることを「引く」、もっと引くと「ドン引き」、ウケないと「すべる」、その心情は「痛い」、状態は「へこむ」。その多くが和語なのは、漢語より意味が広く転用しやすいからだろう。千原ジュニアが言う「残念な兄」は漢語ながら、ありそうでなかったということでは絶妙な言いまわしだ。

しかし、「言うても」の使い方は今いち気にいらない。「言うたら」は「言ってみれば」で、「言うても」は「言ったとしても」という意味だと思うが、最近は意味のない間投詞として使われている気がする。「嗅いでみて」の意で「におってみて」と言うのも引っかかる。「嗅ぐ」のは人の意思だが、「におう」は違う。関西では「におう」を他動詞として使うらしいので、その影響か。

これら今風の言葉が頭にあると、古い小説を読んだとき変な感覚を味わうことがある。たとえば、円地文子の小説『鬼』には、「普通に日本各地に昔から伝わっていた狐憑きなどの現象のほかに」という一文があるのだが、これなどは「普通にうまい」といった言い方に思えてしまう。また、作者は忘れたが、「あると思います」などもよく見かける。これなどは今読むとまるで天津木村だ。

太宰治の『走れメロス』には「そうです。帰って来るのです」とあり、思わず川平滋英風に「レインボー」と付けたくなってしまった(あれ、ちょっと古かった?)。古いつながりで言えば、「そうなのだ」のように語尾を強調した言い方をされると「バカボンのパパ?」と思ってしまう。文豪たちも、まさか半世紀を経て、そんなツッコミをされるとは夢にも思わなかっただろうね。黒)

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言葉処 其の90「『うらぼん』ってどんな本?」

ぼんやりしているときに「せがき」と言われ、なんだか分からなかった。「背書き? なんか書くの?」と問うと、「ウラボンだよ」と。よくよく聞くと「施餓鬼」、つまり仏教の行事のことだった。ちなみに一般に「お盆」と言われる「盂蘭盆」はサンスクリット語の「ウランバナ」の音写語だそうで、当たり前だが、エッチな裏モノの写真集を指す俗語「裏本」とはなんの関係もない。

「お盆」のように宗教から来た言葉はあまたあり、「内緒」もそう。仏教用語では「内証(ないしょう)」と書き、これは内心の悟りのこと。「嘘も方便」の「方便」も仏教由来で、これは衆生を救うための詭弁。「油断」は、『涅槃経』にある「壺の油を一滴でもこぼしたら命を絶つぞと言われた」という話が語源。この「涅槃」は「ニルヴァーナ」の音訳で、不生不滅の境地のことだ。

力むときに言う「どっこいしょ」は、霊山に登るときなどに言う「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」が語源という説も。「彼岸」はもちろん仏教用語で、「此岸(現世)」に対して「彼岸」、つまり「向こう岸」という意味。ただ、ニーチェの『善悪の彼岸』の「彼岸」は「超越したもの」という意味であり、お彼岸の過ごした方について説いた本のようだが、むろん、そうではない。

よく「人生、万事塞翁が馬」と言うが、正しくは「人間(じんかん)」であり、意味は「世間」で、これも仏教用語の一つだ。ほか、「迷惑」「面目」「融通」「奈落」「皮肉」など、仏教由来の言葉を挙げればキリがない。普段は至って無信心でも、身の周りは意外と宗教だらけだ。ちなみに「キリがない」の「キリ」は、仏教ではないが十字架を意味する「クルス」が語源という説も。(黒

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言葉処 其の89「今なお続く自粛ブーム」

ポール・マッカートニーの『Hi! Hi! Hi!』はドラッグ体験を歌ったもので、「Body gun」という歌詞が猥褻だと問題になったとき、ポールは「『Polygon(三角形)』と言ったのだ」と釈明した。ビートルズの『Lucy in the Sky with Diamonds』はLSD体験を歌にしたものと言われているが、ジョン・レノン自身は息子のジュリアンが描いたサイケな絵から着想を得たと言っている。

これらの曲は放送禁止になったり、なりかかったりしたようだが、禁止の条件は世界共通ではなく、また基準そのものも曖昧だ。放送コードにしても、具体的にこの言葉はだめという決まりはなく、時代性を鑑み、そのつど判断されているようだ。では、誰が判断しているかというと、戦前の言論統制とは違って“お上”ではなく、メディア側である。つまり、自粛ということだ。

それはいいが、問題は自粛の実態が配慮ではなく、クレームになったら面倒という事なかれ主義にあること。だから、言葉尻をとらえ、差別語ではない「片手落ち」といった言葉を排除したり、職業を聞かれた本人が「百姓です」と言っているのに、慌てて「ただいま不適切な発言があったことをお詫びします」と謝罪したり、手塚治虫や梶原一騎の名作のセリフを空白にしたりする。

今、「屠殺場」は「食肉加工場」に言い換えられるが、「食肉加工場のような殺人現場」としても差別であることは同じ。一方、「そこに屠殺場がある」に差別の意図はないが、一律NG。これは言葉さえ狩れば差別はなくなるという安易な発想を生む。そこで今は差別語かどうかではなく、差別の意図があるかどうかで判断するようになっているが、それでも今なお過剰な自粛は続く。(黒

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言葉処 其の88「日本語と外国語の“アナ”ロジー」

日本語として読むとおかしな印象になる外国語がある。「ホモ牛乳」は「ホモジナイズド」(均質化)の略だそうだが、学生の頃は、よりによってなぜ「ホモ」なのかと不思議だった。風邪薬の「ベンザ」は抗ヒスタミン剤「ピリベンザミン」の略だそうだが、「ベンザエース」なんて言われると超豪華な便座を思い浮かべてしまう。和式時代は便座とは言わなかったから仕方ないけど。

人名も例外ではない。「ヴァスコ・ダ・ガマ」はガマ(蛙)という語感にインパクトがあるせいか、インド航路発見という偉業は忘れても、名前だけは忘れられない。また、帝政ローマ時代の偉人には「○○アヌス」とつく人物が多いが、後年、それが肛門を意味すると知ってなんとも変な感じだった。初代ローマ皇帝「オクタヴィアヌス」は帝政ローマの「水戸黄門」といったところか。

語感がぬるい人物もいる。神聖ローマ帝国の「オットー1世」は「おっと!」と驚いてばかりいる剽軽者のようであり、清の初代皇帝「ヌルハチ」は「ぬるい八兵衛」を略した、落語に出てきそうな人物を思わせる。また「八重洲」の語源となったオランダ人「ヤン・ヨーステン」は「よく転ぶ人」のようでおかしい。むろん勝手な思い込みだが、連想で覚えると記憶には残りやすい。

ほか、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」(我思う、ゆえに我あり)は「住む」を想起させ、芸術作品のモチーフメメント・モリ」(死を忘れるな)は「森進一」を連想させる。また、『アンネの日記』は生理を連想させるが、これは『アンネの日記』から取った広告コピー「これからは生理の日をアンネの日と呼びます」が由来だがら、生理を連想しても満更こじつけではない。(黒)

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言葉処 其の87「がんばれ!田淵」

クイーンの「キラー・クイーン」の中にある「gunpowder, gelatine」という歌詞が「がんばれ、田淵」に聞こえるというのは有名だが、それまでは「ガンパウダー、ゼラチン」と聞こえていても、事前に「がんばれ、田淵」という日本語が頭にあると、大脳が字幕のようにしてそれを読んでしまい、聴覚は働かなくなってしまうらしい。ちなみに、この田淵は阪神~西武の田淵幸一選手だ。

この手のものは山ほどある。「掘った芋、いじるな」(What time is it now)や「知らんぷり」(Sit down please)はつとに有名だが、ほかにも「揚げ豆腐」(I get off)、「That you know」(だっちゅーの)、「わっかんない、意味」(What can I mean?)といったものもあり、意外と通じそう。実際、「water」は「ウオーター」では通じないが、ジョン万次郎流に「わら」と言うと通じる。

とまれ、なんでもない言葉でも英語にするとカッコいい。「I love you, I need you, I want you」というキザなセリフも英語なら様になる。これは舶来志向のなせる業かと思ったが、英語は響きのいい言葉と感じるのは西洋人も同じらしく、どこの国の歌手かは忘れたが、語呂合わせの英単語を並べただけのデタラメな歌を歌っている人がいるそうだ。英語版ハナモゲラ語と言うべきか。

一方、和訳するとおかしい言葉も。ブルース・スプリングスティンの『Born in the USA』は日本語で「俺はアメリカで生まれた」と連呼すると、まるで吉幾三だ。シカゴの『25 or 6 to 4』は直訳すれば「425,6分前」だが、70年代、世界中の若者が目覚まし時計の音声ガイダンスと化した。ちなみに、ドラッグでラリった体験を歌ったこの歌、邦題は「長い夜」と詩的だ。(黒)

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言葉処 其の86「蟹が縦に歩くが如し」

駅の窓口で「to Washington」と言ったら切符が2枚出てきてしまい、慌てて「for Washingtonと言い直すと4枚! こんなとき前置詞は何を使うんだ、「えーと(eight」と考え込むと、今度は8枚出てきたという話がある。笑っていられるのはここが日本だから。外国に行けば明日は我が身。かく言う私も、「bourbon」を注文して「what’s バーボン?」と言われたことがあった。

この手の話はあまたある。日系人が「ライス」と言って「lice(寄生虫)を食うのか」とバカにされたとか、オシャレなバーで「bloody mary」を注文したらなぜか「bread and butter」が出てきたとか。私の知人は「hamburger」と言って通じなかった。ところが、なぜか「cheese burger」は通じる。そこでチーズ嫌いの知人はこう言って注文した。「cheese burger without cheese!」

小学校の修学旅行で日光に行ったときは、外国人観光客が珍しくて握手待ちの行列ができたことがあった。いよいよ私の順番。緊張して思わず「はい」と言って手を差し出すと、「Hi!」と解され相手は満面の笑顔。周囲には「英語が話せる」と思われて鼻高々だったが心中複雑。さらに「Can youなんたらかんたら」と言われ、「bye」すら言えずほうほうの体で退散したのだった。

ドイツ訛りにフランス訛り、南部訛りにAussie Englishもあり、ビートルズはリバプール訛り。だから日本語訛りでいいと開き直りたいが、問題は訛ることすらできないこと。留学中の恩師は、じきに英語が話せるようになるインド・ヨーロッパ語族の学生に「君はなぜ上達が遅い?」と聞かれ、「日本語は縦書き。英語を学ぶのは蟹が縦に歩くが如し」と答えたという。けだし名言!黒)

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言葉処 其の85「直訳でも印象はだいぶ違う」

翻訳された川端康成の「雪国」は「Snow Country」、芥川の「蜘蛛の糸」は「Spider’s Thread」。だいたいが直訳だ。でも、漱石の「I am a Cat」(吾輩は猫である)にしろ、川端康成の「The Izu Dancer」(伊豆の踊り子)」にしろ、なんか印象が違う。ダンサーって。太宰の「走れメロス」(Run Meros)も安部公房の「箱男」(The Box Man)も原題まんまなのに、なんだか妙にハイカラだ

意訳もある。漱石の「草枕」(Three Cornered World)は和訳し直せば「三角の世界」で、石原慎太郎の「太陽の季節」(Season of Violence)は「暴力の季節」。小林多喜二の「蟹工船」(Factory ship)は省略形だ。思いきったのは谷崎潤一郎の「細雪」で、「The Makioka Sisters」とアイドルグループのよう。「痴人の愛」も主人公の名前ズバリで「Naomi」。これは妙にしっくりくる。

もっとも版元の監修もあるので、勝手なタイトルはつけられないだろう。スティーブン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース」や、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も原題の直訳だが、さすがに映画のタイトルには向かないと、映画化の際、前者は「ショーシャンクの空に」、後者は「ブレードランナー」に変えられて大ヒットした。さすが!

アガサ・クリスティのTen Little Niggers」はアメリカでは「Ten Little Indians」となり、のちに「And Then There Were None(「そして誰もいなくなった」)になった。直訳ながら詩的でいい。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」も素敵なタイトルだが、原題は「The Catcher in the Rye」。捕まえたいのは主人公のほうだから、誤訳ではないけれど誤解している人も多い。(黒)

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言葉処 其の84「桜考」

子供の頃、桜の下で掃除をしていると、掃いたそばから花びらが降ってくるので、いっそいっぺんに散ってくれと無粋なことを考えた。正直、目障りだったし、花見などは俗物のすることと思っていた。陽水は「桜三月散歩道」で「だって狂った桜が散るのは三月」と歌い、梶井基次郎は『桜の木の下には』死体が埋まっていると書いたが、桜には死生観を呼び覚ます魔力がある。

そのせいか、名作には桜を詠んだものが多い。「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」(西行)、「久方の光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」(紀友則)、「さまざまの事 おもひ出す桜哉(芭蕉)」、「死に支度いたせいたせと桜かな(一茶)」。「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」は特攻隊の象徴のようになっているが、本居宣長にその意図はなかったろう。

一方、「あおによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」の「花」は梅だ。だが、歴史の授業で教わった「桜が愛されるようになったのは平安時代以降」というのはウソだそうだ。梅は大和朝廷の頃に中国から渡来した流行のブランドで、そこで和歌を作るとなるとミーハーたちが気取って題材にすることが多かったのだが、桜は桜で人々に愛されていたというのが事実らしい。

桜は日本原産で、原種は山桜などの10種ほどだが、掛け合わせは600種以上もあり、江戸時代に染井村の植木屋さんが大島桜と江戸彼岸を掛け合わせて作ったソメイヨシノも園芸品種だ。また、「冬桜」「十月桜」「不断桜」といった春以外に咲く桜もあり、初めはそうとはつゆ知らず、天変地異の予兆だと思ってしまった。秋空に桜は野暮ではないが、やはり絵にはならない。(黒)

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言葉処 其の83「バカなお姫さんは物もらい」

麦粒腫、俗に言うものもらいになり、切ったほうが早かろうと眼科に行ったが、中年の女医さんはなんだかんだ理由をつけてオペを拒む。「仕事でいろんな人と会うから、お岩さんみたいな顔では困るんですけど」と迫ると、「血を見るのが嫌で眼科医になったのよね」と嫌な顔(そんなのが理由になるかーい!)。結局切ってくれたけど、あんな意気地のない医者は初めてだった。

「ものもらい」は近畿圏では「めばちこ」と言い、西日本では「めいぼ」「めぼ」「めんぼ」という言い方も多いそうだ。ほかに「めもらい」「めぼいた」「めぼう」などがあり、熊本の「おひめさん」はなんだかかわいい。一方、宮城では「ばか」と言うとか。眼科医に「どうしました」と問われ、「ばかになりました」と答えたら、「ばかは元からだろう」なんて茶化されそうだ。

最も使用が多いのは「ものもらい」だが、これも一つの方言に過ぎない。「ものもらい」はうつると言われ、実際、感染者が使ったタオルなどで顔を洗えばうつるので、「人からもらった(感染した)」が言葉の由来のような気がする。しかし、本当は「他人から米などのものをもらうと(この病気が)治る」というのが語源なのだそうだ。なぜそう言われているのかは分からないけれど。

ほか少数の呼称を探すと、北海道の「めっぱ」があった。「めっぱ」は北関東から東北の日本海側にも流布しており、秋田・青森からの移民によって北海道に持ち込まれて定着したらしい。また、一部には「めんちょ」「めこじき」などの呼称もあり、「おでき」はかなり広範囲に渡っている。それにしても「おでき」とはずいぶんと大雑把だ。総称のおできとどう区別するのだろう。(黒)

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言葉処 其の82「気づかない方言」

関西の人に「ほかして(捨てて)」と言われ、「保管して」しまったという話が小学校の教科書にあった。それはさておき、関西の方は元はこっちが日本の中心という自負があるせいなのか、方言かどうかにはあまり頓着せず、当然のように方言を使うので、しばしば会話に支障をきたす場合がある。言葉自体違う場合はまだいいが、言葉が同じで意味が違うと困るときがある。

以前、ある関西の方は「カバンを直せ」と言った。大阪出身ながら川端康成の小説の中にも「靴を直す(揃える)」という表現があるので方言ではないかもしれないが、東京で「直す」と言えば「修理する」ことなので、「ひょっとして『直せ』って『かたせ』って意味の方言?」と聞くと、彼は「『かたせ』ってなんや」と。なんと「かたす」のほうこそ関東方面の方言だった。

東北出身のある方は「鍵をかう」と言ったあと、速攻で「掛ける」と言い直した。通じないと思ったようだったが、「かう」は鍵をかける、つっかい棒をすることを示す和語で、方言ではないだろう。若い子はあまり言わないけど。関東では「わりと」「そのかわり」という意味で「わりかし」「そのかし」と言うが、この「かし」は「方」が訛ったもの。これも若い子はあまり言わない。

東北地方では「ごみを投げる(捨てる)」と言い、教室には「今週のごみ投げ当番」と書いてあるとか。東海地方では「お金を壊す」と言い、「お金を崩す」なんて変だと言われたことがあったが、そのセリフ、そのままお返ししたい。とまれ、和語は動詞が少ないのでどうしても意味が広くなる。北海道では「手袋をはく」と言うそうだが、これは「履く」ではなく「穿く」だろう。(黒)

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言葉処 其の81「関東vs関西」

関東、関西という言い方は中国に倣ったもので、この関は中国・河南省にある函谷関のこと。日本では、奈良時代は鈴鹿、不破、愛発の三関以東(意味としては東国)を関東と呼んだが、その後は次第に狭くなり、鎌倉時代は幕府の直接統治範囲を言うようになる。今は首都圏、北関東の16を指すが、関東の大学が鎬を削る箱根駅伝に山梨が入っているのは昔の名残だろう。

東西では様々な違いがあり、たとえば、西日本の人は自治体名の「町」を「チョウ」と言い、東日本の人は「まち」と読むことが多い。確かに西日本は「チョウ」、東日本は「まち」が多いのだが、混在している県もある。北海道は森町だけが「まち」と読み、逆に福岡県は遠賀町だけが「ちょう」。「村」も「むら派」と「ソン派」があり、どう読ませるかは各自治体の自由だそうだ。

中学のときの塾の先生も関西人で、「XYは一緒やろ」と言い、これを「XYが同居している」と解した私たちは数学以上に混乱した。また、先生は疲れたときに「えらい」と言うので、生徒から「誰が偉いんですか」と言われ、鳥肌のことを「さむイボ」とか、「達磨さんが転んだ」のことを「ぼんさんが屁をこいた」と言っては笑わせてくれた。本人は至って真顔だったが。

また別の関西人によると、関西では「揚げにうどんがきつねで、揚げにそばがたぬき。そば+揚げ玉という組み合わせはない」そうだ。以前、関西風と関東風のおでんの境界を調べた番組があり、境目は日本の函谷関こと箱根、ではなく確か関ヶ原あたりだったが、きつねとたぬきに関しても関東風と関西風の店が道を隔てて対峙しているなんてことになっているのだろうか。(黒)

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言葉処 其の80「霊験あらたか、企業マントラ」

「曼荼羅」とは、悟りの境地や世界観などを表したもので、日本では仏教の絵画などを意味する。この「曼荼羅(曼陀羅とも書く)」という字はサンスクリット語の音に漢字をあてたもので、漢字そのものに意味はないが、よく見ると「荼」は「茶」ではない。「こけら落とし」の「杮(こけら)」(柿に似ているが、縦棒が一直線)」、「完璧」の「璧」(下が玉)に並ぶ「三大紛らわしい」だ。

さて、この「マンダラ」に似た言葉に「マントラ」がある。仏教では仏に対する賛歌や祈りの言葉を指し、日本では「真言」と訳される、神秘的な力を持つ文言。ジョン・レノンは『GOD』の中で「Don't believe in mantra」と歌ったが、むろん、マントラはありがたい言葉である。ただ、世間では、時に「意味があるような、ないような」という意味で「マントラ」と言うことがある。

CMを見ていると、具体的なPRをしていないおかしなコピーがあることに気づく。たとえば、NIKEの「Just do it」、日本マクドナルドの「I’m lovin’ it」、トヨタ自動車の「Drive Your Dreams」、日産自動車の「SHIFT the future」、日立製作所の「Inspire the Next」、三菱電機の「Changes for the Better」……。意味があるような、ないような。でも、心に響く。これを企業マントラと言う。

これらの特徴は具体的でないこと。「どの商品を、どの層に向かって」というキャッチコピーの手法は取らず、漠然と、しかし、元気が出そうな、響きがよくて飽きのこない、かっこいい言葉が選ばれている。その言葉を繰り返し唱えれば、あーら不思議、脳裏に企業名が浮かんできて、あなたはだんだんマックが食べたくな~る。その霊験あらたかな言葉は、まさに真言!黒)

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言葉処 其の79「ものの名前 病気編」

質問しても答えない病気は? 答えは「扁桃腺(返答せん)」なんてなぞなぞがあったが、子供の頃、「ヒダリヘントウセンヒダイ」と診断されたことがあった。どんな大病かと思ったが、要するに左の扁桃腺がもともと大きいということだった。そのせいか風邪をひくと、デカい扁桃腺が更に腫れて桃の種のようになり、「扁桃腺とはよく言ったもんだ」と変に感心してしまったりした。

それから十年ほど経ったある日、猛烈に喉が痛い気がしたので早くに床に就いたが、一晩中痛みがひかず、翌朝には口を開けることもできなくなった。そこで初めて「これは喉じゃない」と気づき、歯医者に行くと親不知と言われた。親不知は退化した歯で、出るべき孔のない部分の歯茎を突き破って出てくるという。なるほど、それで「親知らず」かとこれまた納得してしまった。

「ぎっくり腰」はどこかユーモラスな名前なので、「ぎっくり腰になった」と言われてもつい軽く受け止めてしまうのだが、正式には「急性腰痛」と言うそうで、意外とやっかいな病気らしい。西洋では「魔女の一撃」とも。「もやもや病」もなんだか変わった病名だが、これは脳の血管造影がそう見えることからついた俗称だとか。名前ほど軽微な病気ではないみたいだが、誰がつけたのやら。

「はたけ」は子供に多く起きる皮膚病で、正しくは「顔面単純性粃糠疹」と言うそうだが、これを「畑」に見立てたのはユーモアがあっていい。顔面と言えば、以前、息子に「『あばたもえくぼ』の『あばた』って何?」と聞かれたことがあった。「疱瘡の跡だろ」「ほうそう?」「今は天然痘と言うのか」「天然痘?」「あ、もう絶滅したんだっけ」説明に窮した。すべての病気がかくあらん。(黒)

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言葉処 其の78「読点は一種類でいいか」

「イツモシヅカニワラツテヰル」。これは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節だが、カタカナの連続なので読みにくい。同様に「たとえばかといわれても」も「たとえバカと言われても」なのか「たとえば可と言われても」なのか判別しにくい。漢字もそうで、「その場合は例外です」を「その場合例外です」と書くと、一瞬、「場合例外」という四字熟語(はないけど)に見えて気になる。

つまり、同種のものは一体化しやすいということだが、このようなときはひらがなと漢字、ひらがなとカタカナなどにするか、さもなくば「その場合、例外です」のように間に読点を打てばいい。ただ、このテンがまたやっかいで、記号は一つしかないのに用法は複数あり、国語学者の中には最低でも三つの記号が必要と言う人もいる。ちなみに最多なら十種類が必要だ(テンだけに)。

「僕は彼女と別れ、就職をした」。このテンは重文の境目にあり、ごく一般的なテンの用法。ほか、「おお、神よ」(感動詞の)、「それだよ、問題は」(倒置法)、「准教授、かつての呼称で言う助教授は」(挿入句の前)といった用法もある。紛らわしさの原因は、意味のまとまりのあとに打つテンと、単に語句を分断するためだけのテンの二つがあるからで、違う記号にすればいいのにと思う。

たとえば、「僕は彼女、付き合って三年目だった、と別れ、就職をした」なら、「僕は彼女=付き合って三年目だった‥と別れ、就職をした」とか、「それだよ:問題は」とか。ただ、言葉や記号は共有しあわなければ通じないから、一人では使えない。でも、いつか何かの拍子に普及し、文科省が重い腰を上げることになる。その頃には弥勒菩薩が現れているかもしれないけどね。(黒)

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言葉処 其の75「ものの名前 地名編」

「太秦(うずまさ)」「東雲(しののめ)」などは知らなければ読めない。鳥取の「大山(だいせん)」も「おおやま」とよんでしまいそう。西南戦争の舞台「田原坂(たばるざか)」など九州は「原」を「ばる」と読むことが多く、「前原市」は「まえばる市」。また、沖縄に難読地名が多いのはご存じの通りで、「西表(いりおもて)」「北谷(ちゃたん)」などは後で漢字を当てたものだろう。

意外だったのは香川の「観音寺市」が「かんおんじ」だったこと。観音様は「かんのん」で、発音上、「KAN-ON」が「KAN-NON」となるが、「観音寺市」はなぜか連声(れんじょう)しない。そう言えば、西日本では「中島(なかしま)」「山崎(さまさき)」など連濁しないことも多い。でも、元ホークスの「城島(じょうじま)」選手は? もしかしてご先祖様は東日本の人なのかも?

北海道も難読地名の宝庫。「知床」はアイヌ語で「地の果て」という意味だそうだが、日本の知床のほか、それより北、間宮林蔵の通った樺太にも「シレトコ」がある。「渋谷」の「谷」もアイヌ語の「ヤツ」が語源で、東日本には「谷(や・やつ)」という地名が多い。鎌倉は「谷(やつ)」だらけだ。「能登」も語源はアイヌ語で、これは鼻や突き出たものを指す「ノット」に由来する。

外国には笑える地名がある。「スケベニンゲン(オランダ)」、「エロマンガ(バヌアツ)」、「マルデアホ(アルゼンチン)」、「オナラスカ(アメリカ)」とか。日本代表は愛媛の「土居中」……ド田舎って。ついでに高校名を調べたら、「多古(千葉)」「可児(岐阜)」「伊香(滋賀)」なる高校があった。タコ、カニ、イカ。これでエビ高校があったらグランドスラムだったんだけどなあ。(黒)

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言葉処 其の73「ものの名前 氏名編」

あるとき電話で名前を聞かれ、「森清」と名乗ったところ、「森という字は?」と言うので「木を三つ」と説明した。「きをみっつですか」訝る相手に、「そう。それにサンズイに青」と言ったところ、送られてきたDMには「森清光」と書かれていて笑ってしまった。「木を三つ」が「清光」に聞こえたらしいのだが、それにしても「光」の字はいったいどこから出てきたのだろう。

電話で漢字を説明するときなどは、たとえば「青山」なら「青は色の青、山は山川豊の山」などと色や人名などを出して言ったりする。以前、問い合わせがあり「さいか」と言うので、「雑賀孫一の雑賀ですか」と言ったら一瞬で通じた。この手でいくなら「森は森進一の森、清は山下清の清」と言ったほうがよかったと思うが、ただ、引き合いに出した人物を相手が知らないと困る。

それならばと「森はWood」のように英語で言う人もいるが、これも必ずしも万能ではない。たとえば「かわはRiver」では「川」か「河」か分からず、「おかはHill」では「丘」か「岡」か分からない。英語と言えば、外国人名の場合も事情は同じで、「プロ野球選手のローズと同じ」と言われても、バファローズならRhodes、ベイスターズならRoseだからフルネームでないと区別がつかない。

フルネームでも、引き合いに出した人物が「真弓真由美」だったら「真弓」か「真由美」か分からない。辰己辰美、渥美敦美、勝見克美、三木美樹、三波南、里見聡美、三輪美和も。分からないと言えば、ハリソン・フォードとジョージ・ハリソンが結婚したらハリソン・ハリソンマイケル・ジャクソンとジョージ・マイケルならマイケル・マイケルで、こちらは姓と名の区別がつかない(黒)

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言葉処 其の72「百年の誤読」

セールスに来た男性は声を大にして「他社とは一線をガして」と言った。一瞬なんのことかと思ったが、すぐに「画(かく)して」の誤りだと気づいた。「画」に訓はなく、音読みは「ガ・カク」の二通りしかないが、50%の確率は彼に幸いしなかったようだ。折しもコロンビアの作家、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』がノーベル文学賞を受賞してベストセラーになっていたときだった。

かく言う私は「鼓舞」が読めなかったが、同僚が「コブ」と言うのを聞き、初めて正しい読みを知った次第。その同僚は「大所高所(オオショコウショ)」と言っていたが、これは「タイショコウショ」。「大」は続く言葉が漢語なら「タイ」「ダイ」だが、どっちか区別がつきにくく、さらに「大地震(おおじしん)」「大舞台(おおぶたい)」とも言うなどややこしいことになっている。

「魚心あれば水心あり」は「ギョシン」と「スイシン」だと思っていた。これは「魚(ウオ)、心あれば、水、心あり」だそうで、「魚に水を思う心があれば水もその気持ちを汲み取るだろう」という意味だ。芭蕉の「硝子の魚おどろきぬ今朝の秋」の上五は「ガラスのさかな」かと思ったが、これは「びいどろのうお」と読むそうだ。「びいどろ」って、芭蕉も意外(?)とハイカラ(死語)だな。

仮名を読み間違うこともある。「ウコン」を「ウンコ」、「おこと教室」を「おとこ教室」と読むとか。私はよしもとばななの『サンクチュアリ』を『サンクチュリア』だと思っていたし、『あしたのジョー』の「ハリマオ」は「ハリオマ」だと思っていた。そう言えば、車窓から見えた「五反田」のふりがな「ごたんだ」が一瞬「なんなんだ」に、「代々木」が「佐々木」に見えたこともあった。(黒)

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言葉処 其の71「丑年と牛」

2009年は丑年。牛というとのんびりしている印象が強く、「元旦に神殿に来た順に干支とする」と言われ、早くに出発したはいいが、ゴール直前になって頭に乗せていたネズミに一等賞を奪われるあたりは、なんとも間が抜けている気がする。この印象のせいか「鈍牛」といった言葉もあるが、本物は乳牛でも迫力があり、いつ「猛牛」に変わるか分からないと思うとかなり怖い。

英語では牛は雄か雌かで「bullcow」と言い方が変わる。以前、「OX(オックス)」というバンドがあったが、これは去勢された牡牛。男性バンドで去勢はどうかと思うが、それ以上にグループなので「OXEN」と複数形にしてほしかった。ちなみに広島カープの「CARP」は単複同形。オリックス・ブルーウェーブは複数形にすると小波の集団に思えるから敢えて単数形にしたのだそうだ。

牛肉をはじめ、内臓などは部位によって言い方が変わり、ご存じのとおり、レバーはそのまんま「LIVER(肝臓)」から来ている。ボクシングの「リバーブロー」も「肝臓」で、でも、リブロースのRIBは肋骨。意外なのは、ハツが「HEART(心臓)」から来ていること。ハラミ(腹身)やミノ(蓑)は日本語で、ホルモン(ほおるもの)は関西弁と語源は多種多様のようだ。

「甲子」「戊辰」「壬申」などの十干十二支は1012の組み合わせだから120通りあるはずだが、さにあらず。十干は10年で一周するが、このとき十二支が二つずれてしまうので、10×660年で還暦を迎える。十干は木火土金水の五行にそれぞれ兄弟がいて、木の兄なら「甲(きのえ)」、木の弟なら「乙(きのと)」と書く。2009年は「己丑(つちのとうし)」で「土」と「牛」。鈍牛で行くか、猛牛で行くか。(黒)

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言葉処 其の70「所変われば意味も変わる」

ムーランルージュなどロートレックも描いたフランスの「キャバレー」は歌やダンスが楽しめる店であり、家族連れや女性客もいる。また、トルコ国のハマムはローマ風呂と同じく公衆浴場で、希望すれば垢擦りやマッサージをしてくれる。いずれも健全な店だが、これらを模してはいても日本における同種の店は別の業態になっている。これも一種のネーミング戦略であろう。

逆に外国語の文脈に持っていくとネガティブな意味になってしまう名称もある。カルピスはcalf piss(牛のおしっこ)に聞こえるということで、外国では「カルピコ」とした。高田馬場のテナントビル「BIG BOX」はスラングでは「尻軽」の意味もあるらしい。「ポカリスエット」のSWEATは水分やイオンの重要さを訴求したものだそうだが、外国人は「汗」が入っていると思うだろう。

スペイン語で「加賀(caga)」は「ウンチをする」、「まり子(marico)」は「オカマ」だと女優の加賀まり子が言っていた。また、イタリア語で「今野(cónno)」は「女性器」だから、今野姓の人は困るらしい。「磯野カツオ」も際どい。「イォソノ」は「I am」で、「カッツォ」は男性器を指すそうだ。ま、似た発音を探したらキリがない。九州地方での「ボボ・ブラジル」とかね。

昭和30年代、働く女性は「BG」と言われたが、東京五輪を控え、さあ国際化というときに「『ビジネスガール』とは売春婦」ということから、以後、「OL」(オフィスレディ)と言われるようになった。所変われば意味も変わる。これらはネガティブミーニングと呼ばれ、企業がネーミングする際には厳重にチェックされる。応募する側も調べておくと参考になるのではないか。(黒)

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言葉処 其の69「ローマ字無法地帯論」

小学校では、まずは「si」「ti」「tu」「hu」「zi」と書く国内規格のローマ字を習った。ところが、一般には「shi」「chi」「tsu」「fu」「ji」というヘボン式の表記が多く、これが混乱の第一歩。そんな折、テレビで王貞治選手の背中を見たら「OH」とあって、まさに「oh!」。「OU」や「Ō」ではしまりがないからだと思うが、一方で「ookubo」や「iida」といった表記もあって混乱した。

オノ・ヨーコは「youko」ではなく「yoko」としており、これはよく見る表記だが、この方式には「小野」なのか「大野」なのか区別がつかないという欠点がある。かといって「ō」のようにマクロンを使うのも面倒ということなのか、キャンディーズの田中好子は「」ではなく「sue」と書き、矢吹丈は「Jō」だったが、オダギリ・ジョーは「Joe」だ。これは英語表記の応用。

新橋は「shinbashi」ではなく「shimbashi」と書き、「備中」は「bicchu」ではなく「bitchu。これはヘボン式だそうだが、最近は雑誌「ダンチュー」のように「Danchu」を「Dancyu」とする無手勝流も多い。そのうち「六根」を「rockon」とか「生命」を「saymay」とか、「xble(くすぶる)」「rownin(浪人)」といった表記もでてきそうだ。いや、もう既にあるかもしれない。

DATSUN(ダットサン)は海外では「ダッツァン」のように発音されるそうだが、これは誤読というよりリンクか。でもハイフンがないと「shinokubo(新大久保)」を「死の久保」と読んでしまったりする。明治時代にはローマ字を日本語としようという運動もあり、実際ローマ字で書かれた新聞も発行されたそうだが、今ローマ字を整備する気運はなく、無法地帯に近い。(黒)

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言葉処 其の68「mishearとmisread」

以前はヒアリング(hearing)と言った聞き取りのテストは、今はリスニング(listening)と言う。「hear」は単に「聞く」というより、しっかり「聴く」というニュアンスだと思うので「ヒアリング」でいいと思うのだが、「hearing test」と言うと、聞こえたかどうかを試す聴覚検査のことになってしまうようで、理解したかどうかを問う場合は「listening test」と言うそうだ。

hear」が「聞く」なら、その反対は「mishear」(聞き間違う)だが、初めてこれを見たときは「ミシェア」と読んでしまった。「mis」は「misunderstand」のように単語の前に付く接頭辞だが、「wish」「dish」など「ish」という繋がりになじみがあったので、「mish」と誤読してしまったわけだ。ちなみに「誤読」は「misread」だが、結末を効果的にするために意図的に誤読させる手法の「ミスリード」は「mislead」のほうだそうだ

ble」は「possible」などについている接尾辞で、「believable」「comfortable」など受験英語にはよく出てきた。そんなおり、教科書に「timetable」という単語が出てきて、級友に意味を聞くと「本当に読めないの?」と。「タイメッタブルかな、なんだろ」と思いつつ辞書をひくと、「時間割。タイムテーブル」とあった。なるほど、よくよく教科書を見れば「time table」だった。

ある通訳の方は米兵がしきりに「ダッグ」と言っているので、「なんか掘る(dug)のかな」とスコップを持参したところ、「通訳のくせにダッグも知らないのか」と言われ、ふと見ると基地内に野良犬が侵入していたとか。気候的に暖かい地域出身のアメリカ人は口を大きく開けて発音するので、「ドッグ」が「ダッグ」と聞こえたそうなのだが、紛らわしくて「mishear」するよね。黒)

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言葉処 其の67「訳語がない!」

外国にない物や習慣には訳語がない。たとえば「障子」は「Shoji」と書くか、説明的に「Paper sliding door」と言うしかない。同様に「侍」が「Samurai」なのは分かるが、なぜか英語には地震による大波(津波)を意味する単語はなく、1946年、アリューシャン地震でハワイに津波があった際、日系移民が使っていた「Tsunami」がそのままアメリカ本国でも一般化して現在に至っている。

英語には「自殺する」という単語もない。辞書には「Suicide」とあるが、「自殺をする」という動詞はなく、そう言いたいときは「Kill myself(自分を殺す)」と言うしかない。自殺は宗教的に禁じられており、あってはならないことだから言葉も存在してはならないということだろう。もっとも漢語の「自殺」も「自」と「殺」を組み合わせたもので、「自殺」に相当する和語はない。

意外と言えば「すする」にあたる英語もなかった。「Sip」という単語はあったが、これは「ちびちび飲む」という意味らしく、「すする」とはだいぶ違うようだ。息と同時に物を吸い込む「すする」という行為は、日本、韓国、中国、ベトナムなどアジアの一部の民族が後天的に習得した特殊技能で、だから欧米の方はマナーとしてすすらないというより、やりたくてもできないらしい。

「ただいま」は「I'm home」と言うが、「ごちそうさま」は「I'm full」「Thank you」「It was good」、「行ってきます」はI'm leaving」「See you」「Bye」などと言い、決まり言葉はない。「いただきます」も同様だが、代わりに「神に感謝して……アーメン」と長いお祈りをする。この「神は八百万の神を信じる日本人の感覚では「God」ではなく、強いて訳せば「天」となろう。(黒)

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言葉処 其の66「超ド級の接頭辞」

超ド級」は「圧倒的にすごい、抜きん出ている」という意味で使われ、特に「大きさ」について言う場合が多い。この「ド」は1906年に建造されたイギリスの戦艦「ドレッドノート」に由来し、ドレッドノートと同等のクラスを「ド級」、それ以上の戦力、能力を有する戦艦を「超ド級」と呼んだ。これはのちに一般に転用され、「超ド級の新人」のように使われるようになった。

これと似た言い方に、「ど根性」「どまんなか」「ど迫力」「どアホ」といったものがあるが、この「ど」は主に関西方面で使われていた接頭辞で、ドレッドノート建造の1906年以前から使われていたそうだから、ドレッドノートの「ド」ではない。ちなみに関東では「どまんなか」とは言わず「まんまんなか」と言っていた気がするが、これは死語、ないしは瀕死の常態だ。

強調の接頭辞は「ど」のほか、戦後は器械体操の難度を示す「ウルトC」や「ウルトラマン」どの「ウルトラ」、および「スーパーマン」の「スーパー」が主流だった。しかし、流行して何度も使われると強調の効果は薄れ、昭和の終わり頃には「めちゃんこ(めっちゃ)」や「超」が台頭、最近は「がばい」「ぼっけぇ」「なまら」といった方言が市民権を得ては次々と消えていった。

ほか、強調の接頭辞には「ぶっとばす」「おっつける」「まっ赤」「うすら寒い」「そら恐ろしい」「知らぬ」「細い」などがあるが、これらは「能力」「体操」「国家」などより元の語との結束が固い。言葉として古いせいだと思うが、それは「飯」も同様で、「御御御付(おみおつけ)」に至っては「御」が三つ分かちがたく連なっている。その丁寧さはまさに超ド級!(黒)

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言葉処 其の65「猫属に関する誤解」

「猫」の「ネ」のN音は舌を上顎に密着させ、舌を引き剥がしつつ発音するから、粘り気や停留を感じさせる。猫が「家に付く」「寝てばかりいる」という印象をもたれがちなのもN音のせいで、S音やK音だったら猫の違う面がクローズアップされただろう。ちなみに猫が魚好きと思われているのは、古来日本人が肉より魚を多く食し、その残りものにあずかるしかなかったからだ。

ハイエナは確かに死肉を漁るが、普通に狩りもするし、犠牲となった個体を余すことなく食すのは今風に言えばエコだ。しかし、「ハイエナのような」と比喩されるようにあまりいい印象は持たれてはおらず、ハイエナにはいい迷惑だろう。齧歯類のレミングが集団自殺をすると言われているのもやはり誤解で、あれは狂騒、逃走と言うべきだが、ここにも人の思い込みがある。

豹は名前と実体とに誤解のある動物。豹はアジア、アフリカに生息する大型猫科の動物で、英語ではレパードと言う。姿かたちはジャガーそっくりだが、こちらはアメリカ大陸に棲む別種。パンサーは豹やピューマも意味するが、これは西洋で大型猫を指す総称(古語)であり、パンサーという種はない。ブラックパンサーは体毛を剃ると豹柄をしており、種としては豹だ。

チーターは頬に涙線という涙の跡のような線があるのが特徴で、快足を生かして草原で獲物を追いかける。豹が密林で待ち伏せするのとはだいぶ違うが、うまい具合に棲み分けたものだと思う。これら大型猫と小型猫(イエネコ、ヤマネコ)との決定的な違いは、吠えることができるかどうかに尽きる。ただ、アジアで独自の進化をした雲豹や雪豹は大型猫だが、咆哮はしない。(黒)

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言葉処 其の64「ギャンブラーが由来」

「テンパる」を「テンションが張る」の略だと思っている人が少なからずいるそうだが、麻雀で和了(あがり)できる状態の「テンパイ(聴牌)」を動詞化した「テンパる」が語源。テンパると、当たり牌が出ないかなとか、高めをツモって裏ドラがついたら跳満だなとか、いろいろな意味で緊張するので、転じて精神的に混乱したり、高揚したりしている状態を言うようになった。

スパイ映画で金庫の鍵が合ったときなどに言う「ビンゴ!」は、もちろん「ビンゴゲーム」に由来する言葉であり、そのビンゴゲームであと一つと宣言するときに「リーチ」と言うのは、麻雀のリーチ(聴牌であることの宣言)から来ている。ほか、「本命・対抗・穴」といった競馬用語や、「高飛車」「成金」「一目置く」といった将棋・囲碁用語も一般的な言葉として定着している。

丁半賭博は映画やドラマでしか見かけないが、そこで交わされた言葉は数多く残っている。「裏目に出る」はサイコロの目の表が奇数なら裏は偶数(またはその逆)であることに由来し、「イチかバチか」は「丁」の横棒を「一」に、「半」の上部を「八」に見立てたもの。「でたらめ」の「め」も「目」であり、「目」には「縦横の線が交差した点」、転じて「巡り合わせ」という意味もある。

四大大会を制することや野球の満塁ホームランを「グランドスラム(grand slam=壮大な総取り)」と言うが、これはカード遊びの用語が語源。元はゴルフで四大メジャーを制したボビー・ジョーンズに対してマスコミがそう言ったもので、マスコミ流の比喩表現だが、ブリッジなるカード遊びを知らない日本人には「ground slum(競技場の貧民街)」のように聞こえたりもする。(黒)

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言葉処 其の63「言葉の権威主義」

田舎臭いとバカにされそうな「べえべえ言葉」も、中居正広が言うと素朴でいい感じがするのか、それに感化されて若い子に流行っているという。そう言えば最近の子は「だけど」を「けど」と言うことが多い気がするが、あれも関西系タレントの影響だろう。方言の復権自体はいいが、ただ、テレビという後ろ盾を得て、それだけが絶対的に正しいような態度で使うのはどうか。

マスコミは第三の権力とも言われ、今や絶大な権威を持っているから、テレビで使えば“正当”というお墨付きがついてしまう。たとえば、「恐」の訓は「恐ろしい」であり「こわい」は「怖い」だが、また「無い」は特に強調するとき以外は「ない」と仮名書きしたほうがいいと思うが、テレビのテロップでよく「恐いものは無い」と表記されているので、それを真似て書く人が多い。

むろん「恐い」でもかまわないが、「恐い」は正しく「怖い」は誤字と思っている子もいるから困る。辞書も引かず、「すべてテレビが正解でしょ?」なんて思っている子は、そのうち「1長1短」とか「7転8倒」と書きそうだ。字幕やテロップには字数制限や能率最優先といった事情があり、また、常用漢字表に厳格に準拠しているわけでもないから、それを鵜呑みにするのは危うい。

肩書きという権威もある。「二人」は熟字訓だから「ふたり」と読むが、「2人」は「ににん」だ。また「1度もない」では温度か角度のようだが、某作家がそう書いたときは猿真似が横行した。会社に行ったら自分より自分の名刺のほうが幅を利かせていたという小説が安部公房にあったけど(「S・カルマ氏の犯罪」)、一般の方はともかく作家志望の人が権威に弱いのでは情けない。(黒)

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言葉処 其の62「『美味しんぼ』って変じゃね?」

漫画『美味しんぼ』は「食いしんぼ」をもじったものだと思うが、文法的にはおかしい気もする。「んぼ」は「の坊」の転だからこれでいいが、「食いしんぼ」の「し」が「過ぎ去りし」「来し」と同じ強調の副助詞「し」であるのに対し、「おいし」の「し」は形容詞の語尾なので引っかかる。「おいしがり」と名詞化し、これに「んぼ」で「おいしがりんぼ」ならいいけれど長い。

「がる」は、そのようなふりや話者の感じ方を示し、「痛がっています」のように使うが、以前、サッカー中継で「痛んでいます」と言っているのを聞いて、なんだか腐敗・破損して「傷んで」いるようで変だった。「ばむ」は「汗ばむ」など状態を示すが、「黄ばむ」のようによく聞くもののほか、辞書には「戯ればむ」「白ばむ」「黒ばむ」なんてのもある。「黒ずむ」とどう違う?

「ずむ」もそのような状態になるということだが、負の印象が強い。「涙ぐむ」などの「ぐむ」は予兆を示すが、意外にも「汗ぐむ」という言い方があった。「春めく」の「めく」は日本人好みなのか「目くるめく」「ざわめく」「なまめく」など用例が多く、ほか、辞書には「いらめく」「とろめく」「ののめく」など古文でしか見かけないような「めく」が「ひしめく」状態だ。

「よろめく」を不倫の意で初めて使ったのは三島由紀夫(『美徳のよろめき』)だったと記憶しているが、作家はたまに造語をする。「肩が凝る」は漱石の造語だ。一方、川端康成の『伊豆の踊子』の中には「明るんで」とあり、形容詞に「んで」は変だ、文豪の勇み足かと思ったが、「明るんで」の原形は「明るむ」という動詞だった。康成先生は「造語んぼ」ではなかったみたい。(黒)

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言葉処 其の61「蒸しパンが食えない」

藤原俊成に「またや見ん交野の御野の桜がり花の雪散る春の曙」という和歌がある。桜狩りは、リンゴ狩りのようにして桜の花びらを集めるという風流な遊びだが、文芸批評家の渡部直己によると、この「さくらがり」は「さ・暗がり」のことだそうだ。むろん、俊成にその意識はなかったと思うが、俊成82歳、最晩年の心境はそこに小さな暗がりを見たということだろう。

これと同じような言葉の変換を偶然やってしまうことがよくある。子どもの頃、何かで「身体障害者賞」なる賞をもらったが、賞状授与でそう言われたときは「身体小会社賞」と書くのかと思った。理科の授業では「クエン酸」を使ったが、塩酸の一種と勘違いして戦々恐々だった。関係ないけど、先生が「アミノ酸」というたびに級友の「網野さん」が微妙に反応するので笑えた。

中学生になると、日本語ですら混乱している頭に英語が入ってくる。「あまのじゃく」とは妖怪の名でもあり、他人の言うことを聞かないへそ曲がりのことでもあるが、英語風に発音して「天野JACK」(日系人か!)と笑い、逆に犯罪組織の意味もある「シンジケート」という英語は、「真司・ケイト」という二人組を連想させた。「ヒデとロザンナ」の影響だったかもしれない。

語感というのは怖い。音だけで「餡かけ焼きそば」と言われ、「あんこを掛けてどうする!」と敬遠し、横浜名物「サンマーメン」は秋刀魚が丸ごと乗っているのかと……なわけはないのだが、固着したイメージはしぶとい。頭では分かっていても「蒸しパン」などと言われると、パンにまぶされた干しぶどうがダンゴムシか何かに見えてしまい、どうしてもムシできない。(黒)

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言葉処 其の60「関西人は『か』がお好き」

漫画『アタック№1』の歌詞は「苦しくったって悲しくったって」だったが、エアバンドが歌う『アブラゼミ(東京バージョン)』では「どんなにつらっても」と歌っている。作詞のカシアス島田(紳助)は関西の人なので「つらかっても」と言うが、共通語では「つらい」の連用形「つらく」に「ても」を付けて「つらくても」、または促音を伴って「つらくっても」と言う。

仮定を表す「ても」は、動詞なら「叱っても」「転んでも」、形容動詞なら「好きでも」「きれいでも」となり、形容詞の場合は「美しくても」「寂しくても」のように「くても」となる。で、「つらい」は形容詞だから「つらくても」が正解だが、「く」より「か」のほうが(特に関西圏の人には)発音しやすいので、歌詞としては「つらかっても」のほうがいいのかもしれない。

最近は「違かった」とか「違くて」と言う。英語のdifferentは形容詞だが、日本語の「違う」は動詞だから、「かった」ではなく「違った」でいい。「違くて」は正しくは「違って」、または意味からすると「ではなくて」だろう。ちなみに「違う」を「ちげえ」と言う若者言葉は、「すごい」を「すげえ」と言う式の江戸弁を模したものだから西日本の人には違和感があるという。

「気持ちかった」「きれいった」なる言い方もある。「気持ちかった」は「気持ちよかった」の略語だが、「きれいかった」とは? 「きれい」は形容動詞だから共通語では「きれいだった」だが、形容詞的に「きれいかった」と言ったほうが個人の感想というニュアンスが強く、また「つらかっても」同様、西日本では「きれいかった」もポピュラーな謂いだそうだ。(黒)

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言葉処 其の59「邦題は惹句」

小説『風と共に去りぬ』の原題は「Gone with the wind」、ボブ・ディランの名曲『風に吹かれて』は「Blowin’ in the wind」。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は「The Catcher in the Rye」。原題に忠実でありながら邦題も詩的でいい。一方、意訳しないと日本人には分かりにくいものや、商業主義的にはストレートすぎる原題もあって、売る側の苦労が忍ばれる。

『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』、『黄昏(on golden pond)』、『史上最大の作戦(The longest day)』、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day’s Night)』などは、直訳や原題のままだったら、これほどのヒットにはならなかったかも? やはりタイトルは広告コピーであり惹句でもある。ちなみに上記の後の二つは水野晴郎の命名だそうだ。

ただ、『悲しき慕情』と『悲しき街角』、『愛がすべて』と『愛こそはすべて』など似たものも多い。また安易でありがちな修飾語がついていて気分が損なわれることもある。マイケル・ジャクソンの『今夜はビート・イット』の「今夜は」なんて要らないし、ポール・マッカートニーの『ひとりぼっちのロンリーナイト』は言い過ぎ。ひとりぼっちだからロンリーなんだってばよ!

タイトルは内容表示でありながら象徴的で、読んだあと、鑑賞したあとで「なるほど」と思わせてくれるのがいいと思うのだが、ときどきアイデアに窮してしまったのか、暴発したような突然変異が出てくる。たとえば、ホラー映画『Orgy of the Dead』。直訳すれば「死の宴」といったところだが、邦題は『死霊の盆踊り』だった。盆踊りって……手振りは似ているけど。(黒)

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言葉処 其の58「選手名もネーミング」

1970年代、大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)で活躍したシピン選手は、当時人気だった子ども向け番組のキャラクター『怪傑!ライオン丸』にその風貌(というか髭)が似ていることから、登録名を「ライオン丸」にしたいと申し出たが、あっさり却下されている。理由は定かではないが、当時の感覚では「そんなおふざけを」といったところだったのだろう。

外国人選手では昔も愛称の登録名はあったが、ドットソンでは損しそうなのでダットサン(南海)、マンコビッチでは放送コードに引っかかるのでマニー(大毎)など消極的理由が多かった。日本人選手の場合は山本昌(昌広)、鈴木尚(尚典)など同姓選手と区別する場合だけで、仁村薫・徹兄弟は中日時代、仁村兄、仁村弟と表記した。兄、弟って、分かりやすいけどね。

その後、外国人選手はイメージ戦略の時代になる。シャインブラムでは呼びにくいのでシェーン(広島)、ブームを呼ぶブーマーと野獣のようなアニマル(阪急)。オーテンジオ(南海)は世界の王を超えろと「王天上」の漢字が当てられたが、名前負けしたのか翌年退団している。日本人で戦略的に愛称を登録名とした第一号はオリックスのパンチ佐藤、次いでイチローだった。

ただ巨人は例外で、篠塚和典(利夫)など表記変更はいいが、他球団から獲得したJ・Pには本名を名乗らせている。が、このジェレミーとゴンザレスという二人の外国人選手がいるところにジェレミー・ゴンザレスが入団し、仕方なくGGとした。スタルヒンは戦時中、創氏改名で須田博に改名させられているが、この恥ずべき歴史の責は同じ軍でも巨人軍のせいではない。(黒)

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言葉処 其の57「macは何の代名詞?」

宅配便は急に広まったこともあって普通名詞の普及が追いつかず、しばらくは「宅急便」が普通名詞だと思われていた。『魔女の宅急便』はそんな時代背景の中で生まれた題名だが、映画化の際に「登録商標をタイトルに使ってはまずかろう」と関係者は泡を食ったそうだ。結局、ヤマト運輸がスポンサーに入ることで決着したが、当時、商標への認識はかくも薄かった。

昔は商品名が代名詞になってしまうことがあった。セロテープ(セロハンテープ)、タバスコ(ペッパーソース)、テトラポッド(消波ブロック)、ラビット(スクーター)、クレパス(クレヨン)、クラクション(ホーン)、エレクトーン(電子オルガン)、セスナ(小型旅客機)などがそうだが、エスカレーターは商標権が消滅、ホッチキスは権利が放棄されて今は普通名詞化している。

マックと言えばハンバーガーかパソコンのマッキントッシュを思い出すが、ビートルズの『Penny Lane』という曲の中に「And the banker never wears a mac」とあり、このmacはレインコートのことらしい。当時イギリスでmacと言えばレインコートの代名詞だったそうなのだが、今イギリス、そしてマッキントッシュと言えば、やっぱり「キットカット」だよね?

30年前、紅白歌合戦のトリを務めた山口百恵は、商品名を言うことに配慮して詞中の「ポルシェ」を「車」に替えさせられた。しかし、同じ3音でも「ポルシェ」と「車」とでは発音が違うから「車」の「く」にアクセントがいってしまい、なんだか「緑の中を走り抜けてく真っ赤な車」が寅次郎か、だん吉のようだった。笑えるような、悲しいような、まさに悲喜劇。(黒)

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言葉処 其の56「姓名の順も固有の文化」

伊藤博文や徳川慶喜の名を「はくぶん」「けいき」と呼ぶのは俗称と知っていたのに、吉本隆明や水上勉が「たかあき」「つとむ」と読むと聞いて信じられなかった。「りゅうめい」「べん」でなければ変だよと。調べてみると確かにそうで、まさか菊池寛や安部公房もかと思ったが、本名は「ひろし」「きみふさ」ではあるものの、作家名は「かん」「こうぼう」だった。ほっ!

戊辰戦争で活躍した榎本武揚の俗称は「ぶよう」だが、明治八年の千島・樺太交換条約の署名には「Enomoto Takeaki」と記している。ここで着目したいのは読み方ではなく姓名の順番。西洋式に書けば「Takeaki Enomoto」だが、榎本は姓名の順にしている。むろん西洋通の榎本はこのことを知っていたが、表記の順序も日本固有の文化と考えて敢えて変えなかった。

ところが、明治も中頃になるとローマ字表記では名前を先に書くようになる。外遊した伊藤博文がたびたび姓と名を間違われ、面倒だからそう書くようになったのが始まりだが、脱亜入欧の時代はともかく、今もそう表記するのは舶来志向に過ぎる。その点、中国や韓国は骨があるとサッカー選手の背中を見て思っていたが、これもだいぶ前に名姓の順になってしまった。

終戦直後、志賀直哉は日本語を廃止してフランス語を公用語にしようと唱えた。そうなっていたら戦争に至らなかったかは分からないが、「みずかみ・つとむ」が「みなかみ・べん」と読まれることはなかっただろう。しかし、悪いのは言葉ではない。毒を飲んで死んだ人がいたら、それは毒が悪いのではなく、飲んだ人が悪いのと同じで、扱うほうに問題がある。(黒)

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言葉処 其の55「アクセントの平板化」

20年も前の話だが、ゴルフに行ったとき、キャリーバッグを前に「吸盤がない」とボヤいている若い兄ちゃんがいた。はて? ゴルフに使う吸盤とは? と思った直後、はたと気づいた。彼が探していたのはアイアンの「九番」だったのだ。そのときは、おかしなアクセントだな、どこの地方の発音だろうかと思ったが、思えばあれは若者の皆平板アクセントのはしりだった。

ただ、平板な発音は、外来語ではかなり昔から見られた。英語は頭高アクセントが多く、語尾の子音はほとんど発音しないから、「cup」「head」を「カップ」「ヘッド」のように日本語っぽく語尾をはっきり発音すると、相対的にアクセントは平板化する。私見だが、これが漢語や和語にまで影響し、「カレシ」「カノジョ」といった発音を生んだのではないかと思う。

ただ、外国語を日本語に混ぜる場合、そこだけ外国語っぽく発音すると浮いてしまうので、日本語的に発音するのは分かるが、なにゆえ「九番」を「吸盤」のように言うのか。頭高アクセントの、あの息を溜めるような緊張感がかったるくてフラットに発音するのか。でも、それでは「改心」と「会心」、「維新」と「威信」などは区別がつかなくなってしまう。なんだかなあ。

けれど、今の中年も昔は「新人類」などと言われ、当時の大人に「なんだかなあ」と言われた口だった。ナポレオンが発掘したロゼッタストーンには紀元前の文字が書かれており、解読してみれば、なんのことはない、「最近の若い者は……」という愚痴が書かれていたそうだが、年をとれば若者のことが理解できなくなる。そんなことを2000年も繰り返して今がある。(黒)

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言葉処 其の54「 『づ』と『ぢ』の命運」

「口遊む」は「遊む=すさむ」に濁点だから「ずさむ」だ。という「ず」と「づ」の識別法を国語の授業で習ったと思うが、これが一筋縄ではいかない。「躓く」は「爪突く」の意なのに「つまずく」で、「頷く」(項突く)は「うなずく」。「いづれ」「少しづつ」「腕づく」も今は「いずれ」「少しずつ」「腕ずく」と書く。でも「気付く」「すし詰め」は「気づく」「すしづめ」……。

複合語になる際に濁点がついたものは元の言葉に準じ、「一里塚」「三軒茶屋」なら「づか」「ぢゃや」となり、また「つづく」「ちぢむ」のように「つ」「ち」が続く場合も「づ」「ぢ」を使う。しかし現代仮名遣いでは、一体化した言葉や、「地面」「地震」のような語頭の「ぢ」は、「ち」が変化したものでないと判断し、「じめん」「じしん」と書く。「づ」で始まる言葉はない。

「づ」と「ず」、「ぢ」と「じ」は江戸の元禄の頃までは違う音だったが、江戸っ子はこれらを聞き分けることができず、江戸弁を元にした共通語でも同音となり、原文一致を標榜する明治政府によって同じ字にされた。ちなみに仮名の発音は奈良時代には88音(清音だけで61音)もあったそうで、当時の発音を聞くとまるで狂言だ(というより狂言が昔の発音に忠実なんだな)。

発音は同じになっても「手塚」「小千谷」は「てづか」「おぢや」が正しい。しかし、そもそも「づ」「じ」の発音は「d」ではなく、ローマ字で「teduka」「odiya」とすると「てでゅか」「おでぃや」と読めてしまうので「tezuka」「ojiya」と書かれ、これをそのまま仮名に戻すと「てずか」「おじや」になってしまう。「てずか治虫」なんて漫画家はいないし、「おじや」は雑炊だ。(黒)

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言葉処 其の53「語源を遡れば」

唐の詩人、賈島(かとう)はロバに乗りながら詩作にふけり、政府の高官、韓愈の行列に突き当たってしまう。「無礼者」とひっとらえられた賈島は釈明して許しを乞う。「『僧は推(お)す月下の門』と『僧は敲(たた)く月下の門』ではどっちがいいか考えていてうっかり」。すると文学者でもある韓愈はしばし考え、音が感じられるから「敲く」だと。これが「推敲」の語源。

「登龍門」は、ジッドの『狭き門』の影響か、そういう門があるのだと思いがちだが、これは書き下せば「龍門ニ登ル」。後漢時代、李膺という高官に認められれば将来の出世は約束されたも同然であり、世間はそんな人のことを「龍門に登った」と言った。龍門とは「そこを登りきった鯉は龍になる」と言われた急流で、人々はこの伝説になぞらえて言ったというわけだ。

『隋唐佳話』という隋唐の逸話をまとめた書物によると、許敬宗という男は「曾植や謝霊運のような有名な人物と出会ったなら暗闇の中だってすぐに分かるさ」と言ったという。ここから「暗中模索」という言葉が生まれたわけだが、日本に入ってくるときに意味が逆になってしまった。「五里霧の中にいる」という意味の「五里霧中」(『後漢書』張楷伝)との混同か。

逆と言えば、納豆は大豆を腐らせたものだから「豆腐」で、豆腐は豆乳を器に納めたものだから「納豆」。日本に渡る際に逆になったのかと思ったが、これは見当違い。納豆の「納」は倉庫のこと。また中国語で「腐」は「固まった」という意味だそうで、チーズは「腐乳」と書く。チーズと言えば、醍醐天皇の醍醐はチーズのこと。よっぽどチーズ好きだったんだね。(黒)

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言葉処 其の52「文章作法の嘘」

文章作法に「同じ言葉を使わない」がある。漢詩の修辞法からきたものだが、文字数の少ない漢詩ならともかく、散文では無理がある。同じ言葉が二度三度と出てくれば言葉選びがずさんという印象は持たれるが、同じ言葉でなければいいとばかり指示代名詞を乱用すれば文意が曖昧になってしまう。なるべくなら同じ言葉を、特に近くで使わないほうがよいと解釈すべきだ。

起承転結も漢詩(四行詩)の構成法からきている。日本では「京の五条の糸屋の娘/姉は十六妹十四/諸国大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は目で殺す」という頼山陽の俗謡が有名だが、この構成が文章に応用できるとは限らない。まとめやすくはなるが、形式に捉われないほうがいい。起承転結は論理的に主題を追究していく手段であって様式美ではないから。

「接続詞を使わない」も注意が必要だ。多用すれば幼稚な文に見えるのは事実だが、ないと困る場合もある。接続詞は江戸時代以降、文と文の関係を明らかにする必要に迫られて頻用されてきた。接続詞なしでも通じるならいいが、文章作法のいう題目だけを鵜呑みにしてすべての接続詞を削除すれば、箇条書きを繋げたような前後関係の分かりにくい文になってしまう。

「語尾を揃えない」はどうか。現代語の語尾は「た」「だ」「だった」ぐらいしかないから語尾が揃ってリズムが単調になりがちだが、推量や二重否定で語尾に変化をつけると文意が曖昧になり、体言止めや連用止めの乱用は文の品格を落とす。ではどうするか。文を長くすれば語尾が減って単調さが和らぐ。「文は短い」ほうがいいが、長くても構文がシンプルなら問題ない。(黒)

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言葉処 其の51「重言と言うなかれ」

「馬から落馬する」式の重複表現を重言と言い、これがおかしいと感じるのは、「落馬」一語で既に「馬から落ちる」の意味であるところ、さらに「馬から」が加わって「馬から馬から落ちる」という意味になってしまうからだ。「本を読書する」「車に乗車する」「店を開店させる」「金を借金する」「酒を飲酒する」「山に登山に行く」なども同じで、違和感を感じる、いや覚える。

ただし、新たな情報を加え、「三冠馬から落馬する」「課題図書になっている本を読書する」「大型バスに乗車する」「三号店を開店させる」「上納金を借金する」「大量の樽酒を飲酒する」「富士山に登山に行く」のようにすると重複感が薄れる。「山に登山」ではあたりまえだが、「富士山に登山」は必ずしもそうではないから、言うまでもないことを言うなよ感がなくなるというわけだ。

「古来」「従来」はそれ自体に「より」の意味があるから「古来より」「従来より」は言い過ぎ。「射程」は「射る距離」だから「射程距離」はおかしいとされている。「犯罪を犯す」「不信感を感じる」は会話ならいいが、別の動詞にするとよりよい。「歌を歌う」はどうか。字こそダブっているが、「歌」に「歌う」動作の意味はないから、これは重複ではない。「着物を着る」も同様。

というより、別に意味がダブっていけないわけではない。「超マジやべえ」と同じで、より強調して言うのであれば、「まず最初に」「後で後悔する」「余分な贅肉」「思いがけないハプニング」「とりあえずの応急処置」「後ろから追突」「時速10キロのスピード」「まだ未定」「最後の追い込み」「かねてからの懸案」だってかまわない。そう書いたとて誰も「被害を被る」ことはない。(黒)

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言葉処 其の50「紛らわしい慣用句」

「汚名返上」と「名誉挽回」で「汚名挽回」とか、「的を射る」と「当を得る」で「的を得る」とか、「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」と「侃侃諤諤(かんかんがくがく)」がまざって「けんけんがくがく」とか、紛らわしくていけない。「対岸の火事」と「他山の石」も意味を取り違えやすいし、「舌先三寸」は「口先三寸」、「舌の根も乾かないうち」は「舌の先」と言ってしまったりする。

「采配を振る」は「奮う」と言ってしまい、「赤貧洗うが如し」は「清貧」と間違えやすい。「立つ鳥、跡を濁さず」を「飛ぶ鳥」と言ってしまうのは「飛ぶ鳥を落とす勢い」の影響か。「雉も鳴かずば撃たれまい」は「雉も飛ばずば」と、「白羽の矢が立つ」は「矢が当たる」と言ってしまいがち。それでは大ケガだ。「二の舞を演ずる」「二の足を踏む」「二の句が継げない」も紛らわしい。

「娘十八、番茶も出鼻」と言ったりするが、正しくは「鬼も十八、番茶も出鼻」。鬼でも十八の娘なら、という意味だ。「情は人のためならず」は「人のため」ではなく「自分のためになる」ということ。「気がおけない人」は「不審者」ではなく「気遣いしなくてよい人」。論語の「朋有り、遠方より来る、亦た楽しからずや」は……。クイズ番組でさんざんやっているので以下省略。

諺や慣用句には似たものが多く、以前、星新一と筒井康隆が言葉遊びをしていた。その中の最高傑作は「喉元過ぎれば暑さを忘れる」と「暑さ寒さも彼岸まで」をミックスした「喉元過ぎれば暑さ寒さも彼岸まで」。また「狂気の沙汰」と「地獄の沙汰も金次第」を合わせた「狂気の沙汰も金次第」は筒井の小説のタイトルにもなっている。こういう誤用なら楽しくていい。(黒)

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言葉処 其の49「意味は流体」

文化庁の国語世論調査によると、慣用句や言葉の意味について70%以上の人が本来の意味を取り違えていたそうだ。「檄を飛ばす」は「激励」「鼓舞」の意味で使われることが多いが、「自分の主張や考えを広く知らせて同意を求める」こと。「さわり」は「話などの要点」(正解35%)で、55%は「話などの最初の部分」と勘違いしていた。「さわり」はイントロではなくサビだ。

かく言う私は20年前、アイデアが出なくなるという意味で原稿に「アイデアに煮詰まる」と書いて、校正者の方に「『煮詰まる』は考えがまとまることですよ」と指摘された。当時は「最近、煮詰まっちゃって」というような言い方が出始めた頃で、それに影響された。と言っても言い訳にしかならないが、「煮詰まる」はなんとなく煮込みすぎて焦げついた負のイメージだよね?

「憮然」を「腹を立てている様子」と誤答した人は71%で、「失望してぼんやりしている様子」とした人は17%だったそうだ。しかし、誤用のほうを載せている辞書もあり、これはまさに意味が変わりつつある言葉なのだろう。だから正誤はつけがたい。それにお気楽に考えれば、71%が誤用しているのなら間違ったなりに意味は通じているのだからいいじゃん!とも言える。

そもそも「昔は違う意味だった」と言ってもきりがない。「犬」という言葉しかないところに「山犬」の語が生まれれば、意味のすみ分けが起きて「犬」の意味は狭くなる。逆に「猫、山猫、虎、豹……」とあり、「猫」以外は死語になった場合、すべての猫属を指す言葉は「猫」一語が請け負うことになる。言葉は意味がじわじわと変化していく流体。だから固定はできない。(黒)

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言葉処 其の48「原文不一致」

天気予報を言う際、某氏は「降るでしょう」ではなく「降りましょう」と言っていた。最近は恒常的な異常気象で予報も当たらないから、ここは語感も控えめに「ましょう」と言おうなんて意図だったか。しかし、現代語では「行きましょう」(勧誘)、「持ちましょう」(意思)とは言うものの、「着きましょう」(推量)と言うことが少ないせいか、「降りましょう」には違和感を覚えた。

もっとも昔は「でしょう」も変だった。「でしょう」は推量を表すが、戦前までは未来のことを言う場合、口語では単に現在形で「雨が降る」と言った。ところが、天気予報でそう言ってしまうと断定的すぎることから、「降るでしょう」を採用した。今はごく普通の言い方だが、戦後初めてこの言葉がラジオで流れた際、多くの人が「あんな日本語はない」とかんかんだったそうだ。

もちろん、「降るでしょう」という言い方もないわけではなかったが、それは文章語的であり、会話では使わなかった。原文一致運動から久しい当時でも必ずしも原文は一致していない。今も同じ。口語ではラ抜き言葉と意識しつつもつい使ってしまうことがあるが、文章語は文字という形があるから保守的で、簡単には変わらない。その対応の時間差が原文不一致を生む。

しかし、いつかは慣れる。文章でしか使われなかった「あらかじめ」「ことごとく」(口語では「かねて」「すべて」)といった言葉も今はごく普通に会話に用いられるように、くだけた会話でしか使わないようなラ抜き言葉も、これが死語にならない限り、いつかは違和感なく文章に書けるようになる。ところが慣れた頃にまた新語が出てきて……。原文一致の道は果てなく続く。(黒)

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言葉処 其の47「生ける屍、迷える子羊」

「はないちもんめ」の歌詞に「鬼が怖くて行かれない」とあるが、「行かれない」は「行く」の未然形に「れる」を付けた可能動詞「行かれる」の否定形で、このほうが規範的なのだそうだ。しかし、江戸時代後期には「行けない」という言い方に変わる。ドリフのズンドコ節の「可愛いあの子が忘らりょか」の「忘られようか」や、関西弁の「言われへん」も同じく古い言いまわし。

「行く」の可能動詞は「行ける」だが、では「生きる」の場合は? むろん「生きられる」だが、これを「生ける」だと思ってしまうと、「生ける屍」が「生きることができる屍」になってしまう。「生ける」は「生く」の已然形に完了の助動詞「り」が付き、「生けり」の「り」が連体形の「る」になって「生ける」になったもので、これは可能であることではなく、状態を表すもの。

1980年に「文藝賞」を受賞した中平まみの「ストレイ・シープ」は「迷える羊」という意味だが、この「迷える」も可能動詞ではなく、「生ける」同様、「迷へり」から「迷へる」になり、現代では「迷える」と書くようになったもの。「迷う」は五段活用だから可能動詞は「迷える」だが、迷うのは人の意志ではないので、そこに可能も不可能もなく、だから可能動詞にはならない。

「れる・られる」には「可能・受身・自発・尊敬」の用途があり、紛らわしくていけない。以前、高名な国語学者にラ抜き言葉について聞いてみると、「『行ける』という可能動詞が生まれ、敬語や受身などの『行かれる』と区別できた。『見れる』も同様に、『見られる』と区別できるからちょうどいいよ」とあっさり。でも会話ならいいが、書き言葉ではまだ躊躇してしまうよね?(黒)

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言葉処 其の46「燃えるゴミとは?」

昭和のアイドル歌手 天地真理のヒット曲に「若葉が街で急に萌え出した」とあり、音だけで聞いたので超常現象か放火かと思ってしまった(どんな歌詞だよ)。後年、「春は萌え夏は緑に紅の綵色に見ゆる秋の山かも」と万葉集にあるのを見て、あれは「燃える」じゃなくて「萌える」だったのかと気づいた。今風に言うと「そっちの?」って感じだが、早く気づけよって話だよね。

「燃える」は「燃える男の赤いトラクター」(by小林旭)の「燃える」で、今まさに燃えている状態を指すが、これは可能動詞と似ていて紛らわしい。それゆえ「燃えるゴミ」の表示を見て、今まさに燃えているゴミなのかと思ったという誤解(笑い話)が生まれたりするのだが、だからといって水をかけたり、消防署に通報したりした人がいたという話は寡黙にして知らない。

ただ、誤解するのももっともで、「動く」のような五段活用の動詞はエ段に活用させて「る」を付ければ「動ける」のように可能動詞になるが、「燃える」は下一段活用だから、可能動詞を作るとするなら「られる」を付けて「燃えられる」だろう。しかし、「燃えられるゴミ」では敬語か受身のようでおかしい。「燃える」は人の意志でない動詞(自動詞)だから可能動詞は作れない。

そのせいか、最近では他動詞の「燃やす」を可能動詞にして「燃やせるゴミ」としたりしている。「燃せるゴミ」もあった。「燃す」は古い言い方で、志賀直哉の『焚火』にも『燃しつける』とあるが、これも五段活用だから「燃せる」でOK。ただ、可能であること示すなら「可燃ゴミ」がいい。もっとも返り点を付けて「燃えるべし」と読まれたら放火されるかもしれないけど。(黒)

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言葉処 其の45「間投詞化する流行語」

「ぶっちゃけ」の元は「打ち上げる」かと思っていたが、松本清張の短編を読んでいたら「うちあけた話が」と出てきて、なるほど「うちあけた」に「ぶっ飛ばす」などの「ぶっ」という強意の接頭語が付いて「ぶっうちあけ」、それが音便化して「ぶっちゃけ」になったのだと悟った。で、この「ぶっちゃけ」だが、最近ではぶっちゃけていない話にも使われているような気がする。

「マジ~」「超~」「普通に~」「リアルに~」「正直~」といった言葉が流行語になっているが、流行語は頻繁に使ううちに意味が広がり、特に副詞は間投詞化して無意味化する傾向がある。だから、「超ウルトラスーパーマジすげえ」と四つ重ねても、それは「あ~う~」のようなものだから、凄さが四倍になるわけではなく、単に話し出す前の助走が長くなったというだけの話だ。

「逆に」もよく聞くが、これも間投詞化しつつあり、「飯でも食おうか?」「逆に酒はどう?」という使い方を聞くと、「何が逆なのかな」と言いたくなってしまう。ただ、この無意味化した「逆に」を「それよりも」や「むしろ」に言い替えると、なんだか相手のことを否定した感じが強く出る。その意味では「逆に」は「~とか」「~かも」「~みたいな」と同じぼかし表現に近い。

というような話を同年代の人と話していたら、昔はハマトラだった某女性が「今の子は『逆に』って何気に言うよね」と言ったので、「つーか『何気に』って古くね?」みたいな話になり、一同爆笑だった。すると中高生の母でもある件の女性は「ウケるぅ」を連発。この言葉も既にして間投詞化しており、だから「笑える」の意味は薄く、笑える状況下での合いの手や相槌に近い。(黒)

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言葉処 其の44「広告の言葉と印象」

戦前のCMは商品名、社名の宣伝を最優先にしたものが多いそうだが、少し時代を経ると、類似商品との差別化を図るため、昔の養命酒のCMのように特徴や差異を滔々と述べるようになる。さらに、1980年代になると競合商品は激増し、言葉の足し算だけでは消費者の記憶に残らなくなり、そこで登場したのが、商品特性ではなく印象を残すという手法のCM だった。

内田裕也がただハドソン川を着衣のまま泳ぐシーンが流れ、「なんのCM?」と思った瞬間、「PARCO」とだけ出る。シュールレアリスムのデュシャンが市販の便器に「泉」のタイトルを付けて展示したところ、みな「なるほど」と感心したという逸話があるが、意味が分からないと人は意味を考えてしまう。結果、印象に残る。PARCOのCMはこの手法を髣髴とさせた。

さて、言葉の話題。以前、「パンダをさわったこと、ありますか?」というコピーがあった。「さわる」は自動詞で目的語はとらないから、規範文法的には「パンダをさわる」ではなく「パンダにさわる」と言うべきだが、場所を示す場合は「髪をさわる」といった言い方もする。だから混同しやすい。というより、「パンダをさわる」は今まさに正誤の途上で揺れている言葉だろう。

最近は「それ、お茶であるんですけど」というコピーが気になっている。「お茶なんですけど」と言ったほうが普通だと思うが、それでは妥当すぎて印象に残らないうえ、否定的な語感も出てしまうから、敢えて「お茶であるんですけど」としたのだろう。「パンダをさわったこと」もそうだが、妙に引っかかって考えてしまった。作者の狙いは、実はそこにあったんだったりして!(黒)

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言葉処 其の43「鶯はウグイス色?」

ウグイス豆やウグイス餡の影響か、鶯色と言うと抹茶のような色を連想してしまうし、和色の鶯色も深緑に近い。では、実際のウグイスはというと、羽はごく地味な淡い茶色で、腹はクリーム色に近い。しかし、ウグイスは警戒心が強く、人に隠れてホーホケキョと鳴いているだけだから実物を見る機会は少なく、かくて緑褐色こそウグイスの色だと多くの人が思い込んでいる。

「梅に鶯」というのもその生態からすると疑わしい。ウグイスは藪の中にいて虫を餌としており、人前に現れて梅の蜜を吸うことはまずない。花の蜜を吸うのはメジロで、彼らは春先になるとよく椿の花の中に頭を突っ込んだりして嘴を花粉だらけにしているし、羽の色はそのものズバリ鶯色。つまり、「梅に鶯」のウグイスとはメジロの見間違いということ。今はこれが定説だ。

ちなみに、メジロは、二匹が枝に止まっていると、次にやって来た三匹目は必ずその中間に割り込む。四匹目、五匹目も同じで、はじき出された個体はまた中のほうに割り込んでいく。間に入ったほうが外敵に襲われにくいからだが、隙間のないところに上から覆いかぶさるようにして割り込んでいく姿はさながら満員電車で、ここから「目白押し」という言葉が生まれた。

カッコウは託卵して育児をしないが、対照的に、エナガはつがいになれなかった個体が仲間の夫婦の子育てを手伝う。俗にヘルパーと言うが、なんだかいじましい。オシドリは繁殖期こそ仲睦まじいが、翌年はまた違う個体とつがいになる。だから毎年離婚する夫婦こそ「おしどり夫婦」と言うべきだが、むろんオシドリに罪はなく、悪いのは勝手に思い込んだ人のほうだ。(黒)

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言葉処 其の42「一字二訓の惑い」

大藪春彦の『汚れた英雄』は「けがれた英雄」かと思ったが、これは「よごれた英雄」だった。「けがれ」は内面的な汚れ、「よごれ」は物理的な汚れを指すことが多いからそう勘違いしたのだが、見えない汚れでも「よごれた関係」のような使い方もあり、また「けがれた英雄」では「穢れ=宗教上の不浄」のニュアンスも感じられるから、やはり「よごれた英雄」が適切なのだろう。

ただ、「よごれ役」や「よごれた金」などは、敢えてそう言っているというより、元々は単なる誤読だったのではないか。「穢(けが)れた」と書いた昔と違い、今は「汚れた」と書いて「けがれた」とも「よごれた」とも読むから、書いた当人は「けがれた」のつもりで記したのに、相手に「よごれた」と読まれてしまって、その誤読が一般に広まって定着していったのではないか。

「辛い(からい・つらい)」「潜る(もぐる・くぐる)」「難い(かたい・にくい)」「避ける(さける・よける)」「誘う(さそう・いざなう)」「焦らす(あせらす・じらす)」なども二訓あるが、「汚れる」の例と違い、後者は新聞などではかな書きされるからいい。しかし、「抱く(だく・いだく)」「怒る(おこる・いかる)」「行った(いった・おこなった)」はともに常用漢字だから困る。

だいたいは文脈で区別できるが、「怒る」は「おこる」が話し言葉的、「いかる」が書き言葉的といった程度の違いしかないから困る。文章語ならいいが、口語ではおかしいなんてややこしすぎる。最近の子は「おこった」と言わず「いかった」と言うことが多いが、これもこうした事情からか。それとも相手への冷めた感覚の表れか。思えば横山やすしの「おこるで」には情があった。(黒)

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言葉処 其の41「キリンは麒麟じゃない」

狐や狸など古来中国人に知られている動物は日本語でも漢字で書かれ、ペンギンやカンガルーなどはカタカナで書かれる。20世紀初頭、新種の哺乳類オカピがアフリカで発見されたが、もっと早く発見されるか、生息地が中国だったなら、「丘秘」といった漢字が当てられるか、まかり間違うと、馬のような鹿のような、ということで「馬鹿」と名付けられていたかも!

象や虎、豹はアジアにもいるから漢字があるが、キリンはアフリカに棲み、昔から中国人におなじみとは思えないのに麒麟と書かれる。この麒麟は聖人が出て王道が行われたときに現れる中国伝説上の一角獣(ビールのラベル参照)であって、キリンとは無関係だから、本来ならキリンには首長牛といった字が当てられるか、英名のジラフを音訳して呼ばれるはずだった。

ところが、明の時代、キリンが永楽帝に献上された際、ソマリ語で「ゲリ」(首の長い草食動物)と紹介され、この音が「キリン」と似ていたため、実在する麒麟ということにされてしまった。これが和名になるのだが、キリンは麒麟じゃないから麒麟じゃないキリンをキリンと呼ぶとどっちがどっちだかややこしくていけない。ちなみに中国では今は長頸鹿と言うそうだ。

クック船長率いる探検隊がアボリジニに「あの動物の名は?」と聞いたところ、現地の言葉で「カンガルー(〈英語は〉分からない)」と答えたため、それがそのまま名前になったという説がある。この発見がもっと早かったら、中国語に準じて「袋鼠」と呼ばれていたか、それとも音訳して「観俄留兎」か。直訳して「不明」だったら笑えるけど、それではカンガルーも考るうよね。(黒)

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言葉処 其の40「代用漢字の功罪」

「世論」は「よろん」とも「せろん」とも読むが、本来「よろん」と「せろん」は別の言葉で、「よろん」は「輿論」、「せろん」は「世論」と書く。厳密には「よろん=情緒的な民衆の共感」、「せろん=理性的な公的意見」という違いがあるそうだが、戦後の漢字使用の制限で「輿」の字が使えなくなったため、「世論」と書いて「よろん」「せろん」いずれも読むとされた。

「世論」に統一されて久しい今は、一般には「よろん」と「せろん」の区別はされていない。どちらを選ぶかは好き好きだが、1989年にNHKが行った調査では「よろん派」が63%と多数派だった。私も「よろん派」で、だから「せろん調査」と言われると違和感を覚える。ちなみに「輿」は「与」の旧字の「與」や「興味」の「興」ではなく、「神輿・玉の輿」の「輿」だ。

「交差点」は「道がわり車や人がしかかる」を略したようにも思えるが、以前は「交叉点」と書いた。しかし、常用漢字に「叉」の字はなく、仕方なく「差」の字があてられた。「囲」の語源は「井戸」と関係ありそうだが、旧字は「圍」で、「韋」が「イ」と読むので簡略化するために同じ読みの「井」に変えられた。「月蝕」も「蝕」が常用漢字でないので今は「月食」と書く。

「缶」は本来「素焼きの甕」を指し、金属製の場合は「罐」と書いたが、戦後は「缶」で統一された。「虫」は爬虫類を指し、昆虫は「蟲」だが(ゆえに蛇は「虫偏」)、今は新字の「虫」に統一されている。だから年配の方は「ドラム缶」では陶器のようだろうし、唱歌『虫のこえ』は鰐や蜥蜴の声に思えるだろう。今、『蟲のこゑ』と原題で表記すると、かわいげがないけどね。(黒)

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言葉処 其の39「子どもってやつは」

町内の子どもたちとグラウンド整備をしていたとき、「骨が折れる」と言ったら、「どこの?」と問われて笑ってしまった。「油を売ってないで」と言えば、「そんなの売らないしぃ」と答え、「道草を食うな」と言えば「道草なんてまずくね?」とまにうける。さらに「ネコ(運搬用の一輪車)持ってきて」と言うと、グラウンド中をうろついて猫を探しに行ってしまう。あのねえ……。

私にも経験がある。小学校二年のとき、授業で使うから「大箱」を持って来いと言われ、班を代表して隣の席の子に用意してもらったが、必要だったのは植物のオオバコだった。四年のときはヨウ素のデンプン反応の実験があり、分担して道具を持ち寄ったが、デンプンの水溶液を入れるボウル係だった彼が誇らしげに取り出したのは、ゴムのカラーボールだった。草野球か!

長男が幼い頃、「動かない」と言って玩具の人形を持ってきた。「電池がなくなったんだよ」と言うと、電池を格納している人形の腹部を開け「あるよ」と。「いや電池はあるけど切れていて」「切れてないよ」「……じゃなくて」。数年後、どうにか電池切れの意味が分かるようになったが、ホッとしたのも束の間、今度は次男が電動の玩具を持ってきて「動かない」。はあ、またかよ。

「燃えるゴミ」と言ったところ、「そんなゴミ、危ないよ」と子どもに言われたという話がある。確かに「燃える」は「燃える闘魂」のように「燃えている」という意味でも使うが。ある子は「死にかけるものを用意」と先生に言われ、聞いた親は「死んだ」でもなく「死にかけた」でもなく「死にかける可能性のあるものか」と思ったそうだが、これは「詩に書ける」だったそうだ。(黒)

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言葉処 其の38「新字と旧字と略字」

「圖」や「晝」は行書を楷書化して今は「図」「昼」と書き、「應」「藝」は画数の多い部分を省略して「応」「芸」に、「聲」「縣」は一部分だけを生かして「声」「県」と書く。また複数の字体があった「鯖」(青の月が円)や「辻」(「しんにょう」の点が二つ)などは一本化された。ほか「國、辨、絲、櫻、豫、邊、鐵」などの旧字も簡略化されて「国、弁、糸、桜、予、辺、鉄」となった。

「學」のかんむりは「鳥の巣の中の雛」を表していると聞いたことがあるが、「学」と書いてしまえばそれは分からない。「闘」は新字では「もんがまえ」で、大砲の数え方が「一門、二門」だからそこから来たのかと思ったが、旧字では「鬪」と書き、本来は「たたかいがまえ」であると知って納得した。簡略化を推進すれば表意文字の機能は失われ、最終的には単なる記号と化す。

庶民が勝手に漢字を略す場合もある。「くにがまえ」の中の「玉」(または「或」)を略して「□」とか、「歳」の右下の部分だけを書いて「才」で済ますとか。「三ヶ所」などの「ヶ」は「箇」の字の「たけかんむり」の片方だけを書いたもの。だから「ケ」ではなく「カ」と読む。ほか「摩」の「まだれ」の中を「マ」としたり、「機」の旁の部分を「キ」としたりする略字もある。

漢字の簡略化は中国も同じで、いつだったか「愛」という字の中央部を省略して「受」に似た字にしようという案があり、簡略化はいいが、「愛」から「心」を取ってはシャレにならないと揶揄された。そのせいかは分からないが、今では「愛」のかんむりの下に、「ふゆがしら」ではなく「友」に似た字を書いているそうだ。今度、「福原愛」の中国語表記で確かめてみようっと。(黒)

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言葉処 其の37「略語の不思議」

日本語の略し方でもっとも多いのは、頭文字のように語幹の頭を二音節または一音節ずつ取ったものだろう。たとえば生保(生命保険)、就活(就職活動)、入試(入学試験)、ラノベ(ライトノベル)、東大(東京大学)などがそうだ。また、ゴスロリ(ゴシック・アンド・ロリータ)やファッキン(ファーストキッチン)など、略語が言いにくいので一部を変えている例もある。

(アル)バイト、(インター)ネットなどは言葉の前半部分を省略した略語で、逆にコンビニ(エンスストア)、アニメ(ーション)、高速(道路)、夜行(列車)などは言葉の後半を省略したもの。同様の例に、携帯電話の略である「携帯」があるが、この場合はもともと「携帯」という言葉があるので、「携帯を忘れた」と言われると「携帯し忘れた」のか「携帯電話を忘れた」のか迷う。

空母(航空母艦)、尺八(一尺八寸)、実存(現実存在)、酎ハイ(焼酎ハイボール)は真ん中を採り、逆に着歴(着信履歴)は両端を使っている(着信拒否の略の着拒は頭文字なのに)。北海道大学は北大なのに北海道新聞はなぜ道新か、コミックマーケットはなぜコミマでなくコミケか。エンターテインメントはなぜエンタメか。それ以前に誰が決めたのか。疑問符は続く。

略語の多くは三~四音節だが、「公募ガイド」はそのまま言うには六音節と長く、かといって「公ガイ」では「公害」みたいでいやだ。また、「公募」や「ガイド」では普通名詞とかぶってしまうし、「公ド」や「募イド」「募ガイ」では何を略したのかよく分からない。結局、長いけど仕方なく「公募ガイド」と呼んでいるが、ときどき「広報ガイド」や「酵母ガイド」と間違われる。(黒)

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言葉処 其の36「『私的』と『私な』」

和語は述語が少ないから、「感動する」「ゲットする」のように漢語や外来語を動詞化して間に合わせている。以前、「タバコする?」という広告コピーがあったが、このように「する」を付ければなんでも動詞になる。ただし、原則、動作や感情を表す言葉に限られ、そうでない場合、「タバコを吸う」のように「名詞+を+特定の動作や感情を表す動詞」でないと違和感がある。

「目的的」は辞書にある言葉だが、最近「素敵的」なる言葉を発見した。今では「素敵」と書くが、これは「素晴らしい的」の略だから、「的」を重ねてはなんだかおかしい。もっとも形容詞の「素晴らしい」に「的」を付けるのも変だけど。また、名詞だったらなんでもいいとばかりに最近では「私的」といった造語が量産されているが、中にはいい加減にしろなものもある。

「的」にはいくつか用法があり、「個人的意見」は「個人としての意見」だから意味は助詞の「の」に近い。「父親的存在」は「父親のような存在」だから、そう言われた人は父親ではない。しかし「人間的な人」は「人間に似た人」でも「宇宙人」でもなく、「人間らしい人」という意味。これら「的」は昭和になって広まったが、多用すると硬さが目立つし、スマートでない印象もある。

最近では「私的な」を「私な」と言ったりする。「新鮮な」「罪な」「乙な」「味な」とも言うから、「名詞+な」で「私な」でもよさそうだが、「な」は「きれいな」のように形容動詞の語幹に付き、実は「新鮮」「罪」「乙」「味」は形容動詞でもある。ところが、室町時代の『閑吟集』に「独り寝はするとも 嘘な人は嫌よ」とあって驚いた。なんて21世紀的な、いや21世紀表現!(黒)

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言葉処 其の35「『好き』と『LIKE』」

助詞の「を」は名詞にくっつき、そのあとには動詞が来る。たとえば、「空を飛ぶ」「本を読む」など。ところが、「僕は君を愛している」はいいが、「僕は君好き」はなんかおかしい。実は英語の「LIKE」は動詞だが、日本語の「好き」は形容動詞である。だから、「瞳がきれいだ」とは言っても「瞳をきれいだ」とは言わないように、「僕は君を好き」は誤りということになる。

形容詞には「長い」のように「い」がつく「い形容詞」と、「好きな」のように「な」が付く「な形容詞」があるが、学校教育では「な形容詞」のほうを形容動詞として区別している。形容動詞は活用は動詞に似て、意味は形容詞に似た品詞だが、「好きだ」「好きです」と断定の助動詞で言い切った場合、「名詞+だ」と区別しにくい。《君は美人だ。僕は好きだ。》とか見かけは同じだから。

分類するには、後ろに「だ」や「です」が付くかどうかを見る。「好きです」はいいが、「見るです」はおかしいから、「見る」は形容動詞ではない、動詞だ(山本晋也監督は言うけどね)。さらに前に「とても」が付くかどうか。「とても好きだ」と言うからこれは形容動詞で、「とても本だ」とは言わないから「本」は名詞だ。名詞かどうかは前に「その」が付くかどうかで見分ける。

ところで、「を+動詞」は相性がいいのに、「を+可能動詞」となるとなんか変だ。「私は漢字を書ける」は、おかしいとは言わないが、「私は漢字が書ける」のほうがしっくり来る。理由は分からないが、「書け」では動詞の原形が欠けていて、かかり受けが阻害されるからではないか。そのせいか「書く」をむき出しにし、「私は漢字を書くことができる」とするとすっきり収まる。(黒)

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言葉処 其の34「送り仮名のルール」

戦前は「変る」「終る」と書いたが、今は誤読を避けるため、これらの動詞は「変わる」「変える」、「終わる」「終える」と活用語尾から送る。「し」で終わる形容詞は「美しい」のように「し」から、また「か」「らか」「やか」の付く形容動詞は「静か」「朗らか」「軽やか」のように送る。副詞や接続詞は最後の一文字を付けて「更に」「必ず」「及び」とする。むろん原則であって例外はある。

「もうしこむ」といった複合語は元の言葉の送り仮名に準拠して「申し込む」と書き、片方だけ送って「申込む」とはしない。ただし特定の言葉が付いて「申込書」となることはある。「話」の場合、名詞に送り仮名はないから「お話をする」だが、動詞の場合は「お話しする」となる。ほか「隣の人と隣り合う」「人並みの並肉」「割と割り切る」といった区別をする言葉もある。

派生語も元になる言葉に準じる。「うごかす」は「動く」に準じて「動かす」。「うまれる」「とらえる」も「生む」「捕る」との整合性から「生まれる」「捕らえる」。「あせばむ」は「汗」という名詞に「あせば」という訓を当てるのには無理があるから「汗ばむ」。「あかるい」は活用語尾から送ると「明い」で、「明ける」に準じると「明かるい」だが、これは「明るい」とされている。

送り仮名のルールは国語審議会によって昭和34年に内閣告示、昭和48年、昭和56年にも改訂されて現在に至る。だから「学校で習った送り仮名と違う」と思うこともあるが、悪法も法なり、四の五の言っても始まらない。嫌なら誰もが納得できるルールを自ら作るしかないが、語源まで遡って日本語を整備するなら、逐一用語用字辞典にあたって暗記してしまったほうが早い。(黒)

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言葉処 其の33「豊川誕って知ってる?」

1970年代、豊川誕というアイドル歌手がいて、級友に話すとファンだと言う。「でも誕と書いてジョーって読む?」と聞くと、「読むよ、だって誕生日のジョーでしょう……あれ? ジョーは『生』のほうか。うーん」二人して悩んでしまった。結局、「豊川生」では画数が少なく安っぽいからという結論に達したのだが、それなら「豊川譲」でもいい。名前だからなんと読ませようと自由だけど。

同じ頃、「つかれる」は「労れる」と書くのだと思っていた。ところが、級友に指摘されて確かめてみると、当然ながら「つかれる」は「疲れる」であり、「労」の訓は「ねぎらう」または「いたわる」だった。「打撃」は「打」も「撃」も「うつ」と読み、「超越」は「超」も「越」も「こえる」と読むが、「疲労」も同様に同じ意味の漢字で構成された熟語と勘違いして取り違えたようだ。

ただ、戦前までは漢字使用はかなり自由だったらしく、個人の判断で「労(つか)れる」と書きたければそれも許されたらしい。しかし、それでは混乱するということで、1946年、一般の社会生活で用いる共通性の高い漢字として当用漢字が、次いで1981年、新たに常用漢字が定められ、これにより公文書や新聞の記事などは常用漢字にのっとって書かれるようになった。

常用漢字は1945字とかなり絞り込んであり、使えない漢字、音訓が多い。「空しい」はいいが「虚しい」はだめ。「思う」はいいが「想う」はNGで、「かかわる」に至っては「関」も「係」も表外音訓だから「かかわる」と書くしかない。常用漢字は目安であって制限ではないとはいえ、こんな平易な漢字が使えないとは解せない。ま、音読みで「関する」と書けばいい話だけど。(黒)

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言葉処 其の32「母の中に海がある」

三好達治の『郷愁』という詩の中に、〈海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。〉とある。〈「海」には「母」がいる〉のほうはおいておくとして、アルファベットやかなのように単語を組み合わせる言葉の場合、〈母(Mere)の中に海(Mer)がある〉のように、言葉の中に別の言葉を見出してしまうことがよくある。

東南アジアにスナドリネコという泳ぎが得意な猫がいるが、「砂取る」とはどんな生態かと思った。しかし「すなどる」は「砂取る」ではなく、漢字で書けば「漁る」、つまり魚を獲るという意味だった。「未だに」「繙く」「偏る」「象る」「弄ぶ」「蠢く」も、言葉の意味に合う漢字を勝手に当てて、「今だに」「紐解く」「片寄る」「型取る」「もて遊ぶ」「動めく」と書きたくなってしまう。

「嘯く」になると「嘘吹く」で正解のようにも思える。ただ、「嘘」の語源は「うそぶく」から来ているという説もあるが、そうではないという説もあり、また、「嘘=偽る」と「嘯く=とぼける、ほらを吹く」も意味が異なるから、「嘯」の字は当てても「嘘吹く」は正解としないとされたのだと思う。「坂上る」(遡る)、「色採る」(彩る)、「うず高い」(堆い)も同じく誤用とされている。

「さまよう」は「血迷う」と似ているからか「さ迷う」と書きたくなるが、「さ」は「小さい」を意味する接頭辞だから、それでは「少し迷う」という意味になってしまう。漢字を当てるなら「彷徨う」「彷う」「徨う」だが、それをやっていると異字同訓が“帯正しい数になるから口差がない人に鎌びすしく靴返されて賽なむ前に異深しい言葉にたず触ることは尻ぞ蹴る”ほうがよい。(黒)

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言葉処 其の31「様々なる意匠」

準優勝という言葉が頭にあったせいか、純喫茶と言われて、喫茶店に準じた居酒屋のようなものかと思っていたときがあった。似たような言葉に純文学があるが、こちらのほうは性描写などがない純な文学だと勘違いしていた。ところが、高校時代、デビューまもない村上龍は『限りなく透明に近いブルー』を読み、純文学とは商業性より芸術性に重きを置いた小説だと知るに至った。

純文学の対義語は大衆小説だが、今はエンターテインメントと言う。昭和36年に伊藤整は「『純』文学は存在し得るか」という評論を書いているが、ということは、この時代はまだ「存在し得た」ということだろう。その後、純文学と大衆小説のハイブリッドである中間小説の誕生をみるが、今この言葉はほとんど使われなくなっている。小説そのものが中間小説化したからではないか。

私見だが、純文学と大衆小説という二元論の時代は終わり、今はテーマという横軸にウェイトを置いた中間小説を純文学と呼び、ストーリーという縦軸を優先する中間小説をエンターテインメントと言うのではないかと思う。これら中間小説を「文学」というカテゴリーでくくり、そこからはみでたポルノ小説、ケータイ小説などの通俗小説との二項対立が現代文学の構図だと思うが如何。

平野謙は、横光利一、川端康成などの新感覚派、プロレタリア文学、自然主義などの既成文壇を三派鼎立と看破した。鼎立とは三つ巴ということだが、これに対して小林秀雄は「様々なる意匠に過ぎない」と一刀両断にしている。小林が生きていたら、ライトノベル、ジュニア小説、ジュブナイル、ヤングアダルトについても、「様々なる意匠」と言って切って捨てるのではないか。(黒)

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言葉処 其の30「なぜ小説と言うか」

西洋では共通語としてラテン語が用いられていたが、中世フランス文学は通俗ラテン語=ロマン語で書かれていたため、以来小説はロマンと呼ばれるようになった(多くが冒険譚、恋愛譚だったため転じて冒険や恋愛の意味にもなった)。1985年にノーベル文学賞を受賞したC・シモンやロブ=グリエのヌーヴォー・ロマンは、「新しい冒険・恋愛」ではなく「新しい小説」という意味だ。

一方、小説にはノベルという言い方もあるが、この語源は日本語の「述べる」である(ウソ)。ボッカチオの『デカメロン』がノベラと呼ばれたのが始まりで、狭義には写実的な長編小説を指す。これがロマンとの違いだが、日本語では一律小説と言う。ちなみに文学表現上のリアリズムは現実主義とは訳さず写実主義と訳す。二葉亭四迷の『浮雲』は写実的だが、現実的ではない。

日本語の小説の語源は? 中国では国史に対して民間の俗話を稗史小説と言い、ここから来たとも言われる。滝沢馬琴は『南総里見八犬伝』を小説と言っていたが、これは稗史小説の略だろう。また、君主によって書かれた志(大説)の逆で、個人の思想や人生感を意味する「小編の言説」の略という説もある。こちらはノベルの対訳として明治期に坪内逍遙らによって命名された。

西洋でロマン、ノベルという言い方がある一方、日本には私小説という独自のジャンルがあり、これはどう訳す? ドイツの一人称小説を転用してイッヒロマンと言ってもいいが、私小説は三人称の場合もあり、形式では区別しにくい。ならばSamuraiやTsunamiに倣ってShishosesuと称し、感覚的に理解してもらおうか。ブルース・リーじゃないけど、Don’t think.Feel!と言って!(黒)

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言葉処 其の29「意訳・音訳・直訳」

中国語でコカコーラは「可口可楽」、アインシュタインは「愛因思坦」、ニュートンは「牛頓」で、これらは音訳。家電の「兄弟」(ブラザー)は直訳で、「南天群星」(サザンオールスターズ)、「十一羅漢」(オーシャンズ・イレブン)はなかなかの意訳だが、「熱狗」(ホットドッグ)、「陸地巡洋艦」(ランドクルーザー)は苦しいし、「化学超男子」(ケミストリー)に至っては笑うしかない。

カタカナのない中国語ほどではないが、日本語にも歌留多、天麩羅、硝子、金平糖といった当て字があり、明治以降に顕著に見られる。燐寸(マッチ)、麦酒(ビール)、風琴(オルガン)、手風琴(アコーディオン)などもそうだろう。浪漫(ロマン)や場穴(バケツ)は漱石の作だそうだが、明治人の苦労が忍ばれる。遮断はシャットダウンの当て字という説があるが、だとすれば絶妙だ。

Baseballは直訳すれば「塁球」だが、中国では「棒球」、日本では「野球」だ。「野球」と意訳したのは正岡子規と言われていたが、子規の先輩、中馬庚説が有力だ。ただ、子規も野球好きで、本名の「升」(のぼる)をもじって「野球」(のぼーる)なる雅号を用いていたことなどから俗説が生まれたようだ。子規の出身地、松山にある野球博物館は「のぼーるミュージアム」と読む。

野球は明治5年に伝来したそうだが、そのせいか勇ましい言葉が多く、右翼手、左翼手などは鶴翼の陣を髣髴とさせる。遊撃とは当面の敵を持たず機に応じて味方を援護することを言うが、二塁と三塁の中間にいるショートストップを遊撃手と訳したのは言い得て妙だ。むろん、「遊」は遊興の意ではなく、「ハンドルのあそび」など本業や目的が一時中断した状態を指す。(黒)

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言葉処 其の28「芭蕉の蛙は何匹か」

Full we care car words to become Ms. note いったいなんのことかと思ったら、芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」だと言う。なるほど、そう聞こえるが、文人による英訳もあり、ドナルド・キーンはThe ancient pond A frog jump in,The sound of water、小泉八雲はOld pond frogs jumped in sound of waterと訳した。意味は同じだが、よく見ると明らかに違うところがある。

芭蕉のこの句は深川芭蕉庵で行われた「蛙合」(全員が蛙の句を詠む)で公表された。当初芭蕉は「蛙飛ンだり水の音」と詠み、弟子の室井其角は「山吹や」の上五を提案したが、芭蕉はこれを退け「古池や」にした。「山吹や」で色、「水の音」で音が感じられるから句としては「山吹や」のほうが凝っているが、芭蕉は「質素にして実也」と言い、敢えて句から色を排除してみせた。

この池は芭蕉庵の生簀だ、いや心象風景だなどと諸説あるが、こんな説もある。芭蕉一行が旅していると池があり、昔の池だから沼に近いが、そこに山吹が群生している。「すげえ」一行は一斉に駆け出す。すると水際にいた蛙たちは驚いて池に飛び込む。バシャバシャバシャバシャ。もの凄い音だ。「うわ、なんじゃ、こりゃ」驚いた直後、池は一瞬にして静寂を取り戻す――。

一般には一匹の蛙がポチャッという図を想像しがちだが、八雲はfrogsと複数にしているから、大群ではないにしても「一匹ではない」と解釈したのだろう。俳聖・松尾芭蕉の印象が強いせいか、ついわびさびといったシーンを想像したくなるが、芭蕉は新しがり屋だったと言うし、意外と蛙の大群を見て「なんかすごいんですけど」とおもしろがようなタイプだったのかもしれない。(黒)

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言葉処 其の27「ゾケサ的世界」

「僕が泣く」のように「が」の後に述語がきて終わる文を現象文と言い、江戸時代後期に生まれた表現だが、「僕が涙」のように名詞がきて終わることはない。ただ、「である/です」を略して『恋人がサンタクロース』(松任谷由実)と言うことはできる。これと似ているが、浜田省吾の『君が人生の時』(Time of your life)の「が」は格助詞ではなく、「の」と同じ働きをする文語的な助詞だ。

唱歌『ふるさと』の「うさぎ追いし」を「うさぎ おいしい」、『赤とんぼ』の「(背)負われて見た」を「追われて見た」と勘違いしたりするのは、幼少期に文語調の歌詞を音だけで聞いたときに起こりやすい。逆に同僚のYさんは欧陽菲菲『雨の御堂筋』の「小糠雨 降る」を「来ぬか 雨降る」だと思っていたそうで、わざわざ文語に直しているところがおもしろい。ブレスの位置のせいか。

『仰げば尊し』の「思えばいととし」は「思えばいとおしい」ではなく、「いと疾し」(とても早い)。「今こそ別れめ」の「め」は「分かれ目」ではなく、意思を表す助動詞「む」の已然形。『蛍の光』(原曲はスコットランド民謡)の歌詞は凝っており、「過ぎ」と「杉」を掛けて「いつしか時もすぎの戸を」とし、「あけてぞ」は「(戸を)開ける」と「(夜が)明ける」を掛けているからややこしい。

文芸批評家の蓮見重彦は、少年時代、「あけてぞ今朝は」を「あけてゾケサは」だと思い、佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を想像したという。このような勘違いをゾケサ的世界と言うが、ゾケサなる聴覚映像を生んだのは氏の想像力の賜物か、それとも膠着語である日本語の特性か。(黒)

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言葉処 其の26「和製英語という日本語」

四球をフォアボール、死球をデッドボールと言うのは和訳の再英訳で、英語ではウォーク、ヒット・バイ・ピッチ。ゲッツー(Get two)も和製英語で、英語ではダブルプレー、タッチはタッグ、ホームベースはプレートと言う。オーライ(All right)の掛け声は「I got it」で、捕る前に「捕った」と言うのも変だが、勝利を確信したときなどに「もらう」と言わず「もらった」と言うようなものだろう。

「立入禁止」(中に入るな)は英語では「Keep away」(離れたままでいろ)と表現するが、言葉の違いというよりは発想の違いというものもある。直球は日本ではストレート(Straight)だが、英語ではファーストボール(Fast ball)。問われているのは速いか遅いかであり、変化したかどうかではない。だから、Moving fast ballを「変化する直球」と訳してしまうと形容矛盾に陥る。

和製英語ではないが、日本語では股間を抜ける後逸を比喩的にトンネルと言い、英語ではGo through fielder's legsと説明的に言ったりする。また、日本人が「さよなら~」と叫ぶのを聞き、アメリカのメディアは誰かに呼びかけているのかと関心をもったらしく、その比喩のおもしろさと語感の良さから今ではGame-ending homerunとは言わず、Good-Bye baseballと言うようになった。

英語でナイスボールと言うと球の材質が良いことになってしまうからGood pitch、ノーコンはBad control、救援投手のリリーフはReliever、エンタイトルツーベースはGround rule doubleだが、もう和製英語に慣れてしまった。ナイターは昔からある和製英語で、英語ではNight gameと言うが、文法的には誤りでも日本の球場ではナイターと言ったほうが生ビールは格段にうまい。(黒)

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言葉処 其の25「人は思い込みで生きている」

坂口憲二がやっている缶コーヒーのCMには、いつも「なるほど」と思わせられる。少し前に、上司に「坂田くん」と名前を間違って紹介され、はじめのうちこそ「坂口です」と訂正するものの、最後には自ら「坂田です」と名乗ってしまうものがあって傑作だった。他人のことは笑えないが、ことほどさように「人は思い込みで生きている」。

横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』は、1985年の日航ジャンボ機墜落事故を、地元群馬の新聞記者の目で描いた小説だが、氏は『半落ち』など犯罪小説を多く手掛けていたから、クライマーズとはCrime(犯罪)の派生語Crimersであり、Crimers highとは、犯罪を重ねるごとに興奮が高まり、病みつきになる人といった意味だと思って読んでいた。 

ところが、読めども読めども犯罪が出てこない。登山シーンが出てきたから、ついにここで殺人かと思いきや、そうはならない。おかしいな、それにしてもなぜ登山なんだと思ったときハタと気がついた。クライマーズは登山者のClimbersかと。考えてみればClimbは動詞だからerを付けて人を表せるが、Crimeは名詞だからCrimerとは言わない、Criminalだ。

一方、今年正月のこと。BSで『トランスフォーマー』という映画をやっていると聞き、暇つぶしに見始めてハマってしまった。しかし、トランスフォーマーという割には変身も合体もしない。妙だなと思って見ていたが、ラストシーンで事実が判明した。その映画は『トランスフォーマー』ではなく『トランスポーター』だったのだ。どうりで……。(黒)

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言葉処 其の24「意味はほとんど同じだが」

喫茶店で注文を聞かれた人が「コーヒーいいです」と言っているのを聞き、なにかいやいや決めたような感じを受けたが、そのせいか、対応していたウェイトレスの「コーヒーでよろしいですね」が「よろしいですね」に聞こえ、なんだか「よろしいんですね(あとで後悔しても知りませんよ)」というニュアンスに思えて妙におかしかった。

一方、「コーヒーいいです」と言う人を見たこともあったが、これはおかしい。他の人が別のものを頼み、「君は?」と問われたのなら「私はコーヒーがいいです」でもいいが、その場で話題になっていないことに対して、いきなり「コーヒーがいいです」はない。言えばやけに「コーヒー」が強調されてしまって、専門店でもなければ店員が恐縮しそうだ。

以前、東北本線で出発を待っていたら車内放送があり、車掌さんは「車両には灰皿が備え付けてありますが、○○駅までは禁煙ですので、おタバコはしばらくの間」そこまで言って詰まってしまった。次の言葉を度忘れしたらしい。一秒、二秒。車掌さんは思い出せない。四秒、五秒。「『ご遠慮ください』でしょ」早く思い出せ。こっちもじれてきた。

しかし、やがて車掌さんは言うべき言葉を探しあて、一息おいてこう言った。「しばらくの間、ご辛抱ください」。思わず、先代の若貴兄弟がやっていたCM「人間辛抱だ」を思い出してしまったが、「ご辛抱ください」という言葉に、「ご遠慮ください」にはない温かみを感じて好感を持った。きっとあの車掌さんも“おタバコ”を我慢していたに違いない。(黒)

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言葉処 其の23「死語の世界」

「フーテン」や「ヒッピー」といった言葉が流行していた頃、「ボーイハント」と聞いて地名だと思ってしまった(それは房総半島)。今は逆ナンと言い、ナンの語源は軟派だが、これは難破船の難破だと思っていた。で、ナンパが功成るなどして男女ペアでいれば、当時は「アベック」と冷やかされたが、今なら赤面するのは言った本人だろう。

死語は言語学的には廃語と言い、70年代後半の「ナウい」や80年代初頭の「ぶりっ子」、90年代中頃の「チョベリバ」もそうだが、一気に流行したものは一気に色褪せる。だから、文章の場合、流行語は避けたほうがいい。流行語大賞に選ばれるような言葉はかなりヤバい。てゆーかチョー危険!(なんて書くと、あとで死ぬほど後悔することになる)。

「チャンネルを回す」は習慣が変わって死語化した。柳ジョージの歌詞に「俺のバラードに針置きな」とあるが、CD世代には「針を置く?」だろう。「ブラウン管を賑わす」といった慣用表現もハイビジョン時代にそぐわなくなった。ちゃぶ台、七輪という名称も絶滅危惧種。傘は大丈夫だと思うが、「こうもり」では通じにくい。ところで「E電」って知ってる?

劇画『巨人の星』には「よしんば」という接続詞がよく出てくる。これは言いまわしの死語というべきか。いかにも古臭い言葉という印象がある。ところが、最近、江國香織の小説の中に「弁当を使う」(持参の弁当を食べる)という言いまわしを発見し、これはむしろ新鮮だった。ということで紙幅が尽きました。今週はこのへんで「ドロン」します。(黒)

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言葉処 其の22「日本語の色」

信号の「進め」は青だが、何十年か前はもっと緑に近かった(ように思う)。俗説では、信号そのものの青に電灯の黄色が混ざって緑に見えると言われていたが、どうやらこれはこじつけだったらしい。国際法ではRed、Yellow、Greenであり、日本に入ってきた時点では色も呼称も緑だったはずである。なのに、それがどうして青になってしまったのか。

実は、日本語の青は緑を含む。野菜や果物のことを青果と言い、緑色の葉菜類を青菜というように、古来、緑は青のひとつだった。だから「青々とした芝生」といった表現をするわけだが、現代人の感覚で「青」と言えばBlueそのものだから、青信号が緑ではおかしいという理屈になり、かくて現在のような「青々とした青」になった。

しかし、日本人の色彩感覚が鈍かったわけではない。日本の伝統色(和色)を見ると細かく分類されており、たとえば同じ紫でも古代紫、江戸紫、桑の実色、ぶどう色、茄子紺ときりがない。すみれ色としょうぶ色とあやめ色、蜜柑色と橙色、たんぽぽ色とひまわり色と菜の花色と山吹色など、どこがどう違うのかと思ってしまうものもある。

空色、桜色、柿色、竹色、鳶色、栗色、狐色、山鳩色など、和色はほとんどが比喩であり、茶色、桃色、灰色、鼠色、黄土色などもそうだ。肌色は今や差別語として排除され、絵具などの商品ではペイルオレンジと表記されているそうだが、文学の場合、日本人固有の慣用表現ということで許容してもよくはないか。それとも砥粉色、肉色とでも言うか。(黒)

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言葉処 其の21「フランス語体験」

フランスはモンマルトルの丘だったか、日本人しか行かないダーバン階段なる名所があり、そこはアラン・ドロンがCMで歩いた階段だった。CMでは「D'urban, c'est l'elegance de l'homme moderne(ダーバン、セルルガンス・ドゥ・ロム・モデルヌ=ダーバン、現代の男のエレガンス)」と言っていたそうだが、「un deux trios」ぐらいしか知らない耳にはカッコいい東北弁にしか聞こえなかった。

翌日、パリのレストランで「Two coffee」と言ったところ、ウェイターはごにょごにょ言っており、どうやら「言い直せ」と言っている。仕方なく彼をまねて「Deux café」と言うと、彼は満面の笑みで「Oui(ウィ)」と答えた。ごにょごにょの部分は「Two coffee is said in french」と聞こえた。フランスには中華思想があり、英語=公用語という態度を歓迎しないというのは本当なんだなと思った。

外国に行くと日本語で「エッチな本」などと表示されていて、その「チ」が「テ」だったりして笑えるが、恩師がフランスの青果店に立ち寄ったときは日本語で「サワルナ」とあったそうだ。西洋人は自然に生ったものの形や傷は問わないそうなのだが、日本人は果物などを手にとり、ためつすがめつ見た挙げ句、結局買わない。それでその悪習に怒った店主が日本語で注意書きしたらしい。

別の日、人気ブランドの本店に行ってみた。今では有名なHermesだが、フランス語は頭のHを発音しないなんて知らなかったから、「ヘルメス」と読んでしまった。この少し前、常陸宮華子様が渡仏された際、現地テレビは「イタチノミヤ・アナコ(Hitachinomiya Hanako)」と紹介したそうだ。悪気はなかったのだろうが、日本語の語感で聞くとなんだかおかしい。(黒)

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言葉処 其の20「カタカナ英語は日本語」

片付けをしていたら小学校時代のノートが出てきて、そこに「レニピー」とあって笑ったことがあった。ビートルズの「Let it be」がそう聞こえたらしい。tはtと発音しようとして音を出さないとrの音になり、LerのrとitがリンクしてLeritとなるが、最後のtは発音しないので「レリッ」と聞こえる。MLBなどで飛球を捕る際に言う「I got it」が「アガリッ」と聞こえるのも同じ理由だ。

土佐の漂流民、ジョン万次郎が耳だけで覚えた単語集には、night=ナイ、morning=モヲネン、water=ワタ、yellow=ヤロなどとある。Whiteは「ワイ」で、だからWhite shirtがワイシャツになった。一方、受験英語ではトータス(Tortoise)を「とおといぜ」のようにローマ字読みで覚えたりしたが、Knightなどとなるとちょっと困り、WalkとWorkを逆に覚えてしまったりした。

プロレスの鉄人ルー・テーズについて、渡米した日本人記者が現地取材したところ、そんなレスラーはいないと言われたという。カタカナ英語で「テーズ」と発音してしまったので、アメリカ人にはTazeやTeiseと聞こえたらしい。Lou Theszの表記は当初日本のマスコミもテーズにするかセーズにするか迷ったそうだが、「th」はテでもセでもないから、どっちにしても原音とは異なる。

1970年代、イギリスBBCに『モンティ・パイソン(おかまの恐竜)』という番組があった(日本での放送ではまだ売れる前のタモリが出てた)。厳密にはthonは「ソン」ではないが、ほかに書きようもない。Rightを「ゥライッ」とか、Businessを「ビズネス」とか書いても奇妙だし、結局のところ文字は文字であって音ではないので、100%再現することはできない。(黒)

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言葉処 其の19「ギョエテとは」

明治時代、Goetheの表記はゲーテのほか、ギョエテ、ゴエテ、ギェーテなど実に29種類もあり、斎藤緑雨はこれを「ギョエテとはおれのことかとゲーテいい」という狂句で揶揄した。インドの初代首相は「ネール」だったが、のちに「ネルー」と改められた。「アンデルセン」の原音は「アナスン」だそうだが、これは定着して久しく、そうと分かったときは変えようにも手遅れだった。

写実主義のRealismはリアリムだから、超現実主義のSurrealismeもシュールリアリムと言いたくなるが、こちらはフランス語なのでシュルレアリムと読む。療法を意味するTherapyは、フランス語ならラピー、英語ならラピーと書く。attacheは大使館の駐在武官のことで、彼らが持つようなカバンをアタッシュケースと言っていたが、今は発音どおりアタッシェケースと呼ぶ。

Abracadabraはアブカダブラが正式っぽいが、アブカダブラが正しい。Simulationは発音しにくいのでシュミレーションと言いたくなるが、正しくはシミュレーション。Pennsylvaniaの外来語表記はペンシルニアではなくペンシルニア、Beaujolais Nouveauはボジョレーの表記も相当出まわっているが、ボージョレ・ヌーボーと書く。

かつて殺虫剤のDDTをデーデーテーと呼び、Bedをベッと発音し、Tea bagはティーバッと言った。「ブルドッソース」や「ビッカメラ」もかつての発音の名残だろう。わが父はT字路を「テー字路」と発音し、昔は「丁字路」だったと言い張る。調べてみると、道路標示は路上に「T」と書くが、法令では「丁字路」が正式表記だった。だとすると、「丁」の字の縦棒のハネはなに?(黒)

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言葉処 其の18「新年言葉初め」

年越しそばの起源は諸説あるが、「細く長く」や「練ったそば粉で金粉を集めたから」といった縁起説が有力だ。お節料理の黒豆(まめ)や昆布(よろこぶ)、蓮根(見通し)、数の子(子孫繁栄)、初夢の一富士(不死)、二鷹(高)、三茄子(成す)もあやかりの意味を掛けている。ちなみに、四扇、五煙草、六座頭は語呂合わせではないが、いずれも祝いに関連する縁起物だそうだ。

掛けると言えば、百人一首に「花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」(小野小町)とある。ふるは「経る」と「降る」、ながめは「眺め」と「長雨」の掛詞だ。「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(権中納言定家)の「松帆」は「待つ」、「焼く」は「妬く」と掛けている。これをDouble Meaningと言うが、平たく言えば文芸的ダジャレだ。

童謡「お正月」の替え歌に「お正月には餅食べて 喉に詰まらせ死んじゃった 早く来い来い救急車」というものがあった。誰が考えたのやら。唱歌「一月一日」の替え歌は「年のはじめの ためしとて 尾張名古屋の大地震 松竹ひっくり返して大さわぎ いもを食うこそ楽しけれ」で、向田邦子の小説にも出てきた記憶があるが、これは明治時代に内田百閒(ひゃっけん)が作ったものだそうだ。

年賀状は世相を反映した流行語が多い。「謹賀新年ならぬ『金が信念』だけど、でも、そんなの関係ねぇ」とか、「元旦は一月一日の朝のことだと知らなかったのはどこのどいつだ~い。あたしだよ」とか、「A Happy New Year 欧米か!」とか。関係ないけど、年末に書いたせいだろう、「来年もよろしく」とあったりするのも笑える。2008年をとばして2009年もよろしくって、どんだけぇ!(黒)

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言葉処 其の17「方言の『だに』と助詞の『だに』

郷里埼玉には語尾に「だに」をつける方言が一部に残っている。若い頃はそれを恥のように思っていたが、高校時代、太宰治の『魚服記』に「くたばった方あ、いいんだに」とあるのを見つけ、方言を認知された気がして狂喜した。ただ、「だに」が太宰の出身地津軽から埼玉までの東日本一帯で使われている言葉なら、それほどの広範囲に流布しているものを方言と断じてよいのかとも思った。

太宰には『右大臣実朝』という鎌倉幕府三代将軍源実朝を題材とした小説もある。百人一首に「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小船の綱手かなしも」とあり、詠み人は「鎌倉右大臣」と記されているが、これは実朝のことだ。この実朝の金塊和歌集に「もの言はぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ」とあり、一瞬、「実朝もだに言葉を?」と思ったが、この「だに」は「だけ」「すら」という意味の副助詞だった。

太田道灌の伝説には「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という和歌が出てくるが、ここでも「だに」が使われている。ちなみに山吹は、花は咲くが結実しない徒花(あだばな)で、だから「実の一つすらない」のだが、なぜ実が生らないのかずっと不思議だった。それで調べてみると、「山吹は大陸から雄花だけが持ち帰られた種だから」とあった。経緯は理解できたが、植物に雄と雌があるという事実のほうに驚かされた(って常識?)。

閑話休題。狩りの途中、村雨に遭った道灌は農家に雨具を所望し、紅皿なる娘は山吹の枝を差し出す。枝では雨は凌げんよ。茫然とする道灌に近習の者が言う。「実の一つだになき」と掛けて、貧しくて貸す「蓑一つなき」と言いたいのだと。道灌は農家の娘ですら知っている兼明親王の和歌を知らなかった無知を恥じ、以降歌道に精進。また、しばしば城に紅皿を呼び、今風に言えば二人は和歌友になる。

この山吹伝説は埼玉県越生、豊島区高田、荒川区町谷説などがあり、新宿中央公園にはこの逸話をもとにした「久遠の像」がある。初めに見たときは、高層ビルの下、男性に跪いて山吹を差し出す女性の像を異様に思ったが、伝説を知るに及び、この像には男女差別や封建社会を是認する意識は微塵もないと知った。「蓑一つだになき」は悲しいが、「知の一つだになき」は恥ずかしい。(黒)

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言葉処 其の16「なにをもって方言と言うか」

会社の給湯室で茶壺を手に「アレがない」と言っている後輩がいた。すぐに「急須」のことだと気づいたが、その直後、彼は思いもよらない言葉を口にした。「きびしょがない」と。「なにそれ? 方言?」と笑ったが、調べてみると、急須を意味する「きびしょ」という言葉はかつて広く一般に使われていたようで、『東海道中膝栗毛』にも出てくるという。方言というより古語と言うべきか。

かく言う私の郷里埼玉では、すべすべしていることを「のめっこい」と言う。語源はおそらく「なめらか」だろう。「もっと」のことは「まっと」と言い、「な」が「の」、「も」が「ま」に変化するなど、標準語とは微妙に違う。言葉を強く発音する武家によって「あわれ」は「あっぱれ」に変化したが、同様に「立てる」「広げる」は強調して「おったてる」「おっぴろげる」などと言う。

また郷里では「塩味が薄いこと」を「甘い」と言い、他県の人や若い人に「この味噌汁、ちょっと甘いよ」などと言うと、「味噌汁が甘い? 誰か砂糖でも入れた?」と訝しがられる。しかし、辞書を見ると「甘い」には「砂糖のような味」のほか「塩気が少ない」という意味も載っており、だからこれは方言ではなく、今ではあまり用いられなくなってしまった使い方と言うべきだろう。

小学生の頃、どう見ても「唐茄子」なのに、級友たちは「カボチャ」と言うので戸惑ったことがあった。きっと「ほうれん草」と「小松菜」のような関係だろうと思っていたが、後年、漱石だか藤村だかを読んでいたら「唐茄子」と出てきて、調べてみると「カボチャの別称、狭義には西洋カボチャでないものを指す」とあった。ちなみに「南瓜(カボチャ)」の語源はカンボジアだそうだ。(黒)

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言葉処 其の15「勘違いと誤変換」

「ここではきものを脱いでください」という掲示を見て、「はきもの」を脱がず「きもの」を脱いでしまったという笑い話がある。助詞はなくても通じるから、文字の場合は誤解されることもある。逆に「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と紹介してしまった事件は、「雪国=つらい」という思い込みが助詞「は」を存在させてしまった。映画「男はつらいよ」の知名度も一因かもしれない。

文字では取り違えないが、声に発した場合、品詞と品詞がくっついてしまうこともある。「あ、痛い」と「会いたい」とか、「うん、血が出た」と「うんちが出た」とか。逆に分断される例もある。「パン作った」と「パンツ食った」とか、「ゆで卵」と「ゆでた孫」とか、「俺にはむかう気か」と「俺にハム買う気か」とか。言い間違えることないが、ワープロの場合は誤変換することもあろう。

「内蔵と内臓」、「衛星と衛生」、「確率と確立」、「意外と以外」、「消火と消化」などの同音異義語も誤変換しやすい。ほか、「汚職事件とお食事券」、「『よい週末を』と『よい終末を』」といった例もある。「完璧と完壁」、「渡邊と渡邉」、「己と已と巳」、「載と戴」、「秦と奏」などは、形が似ていて間違えやすい例。「璧」の「玉」は宝玉という意味だから「壁」では意味を成さない。

以前、テレビのテロップを見ていたら「航空機、堕落」と出たことがあった。しかも三回も見た。事故に遭われた方には申しわけないが、人生の目的も夢も失い、「毎日毎日飛んだり降りたり、やってられねえよ」と言って、空港の片隅で自棄になっている飛行機を想像して笑ってしまった。でも、どうしたら「墜落と堕落」を誤変換することができるのだろう。逆に難しいと思うのだが。(黒)

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言葉処 其の14「言葉の舶来志向」

ドレスメーカーを略してドレメと言うが、ある看板には「DOREME」とあった。DRESS MAKERを略せば「DREMA」だが、きっとローマ字式のふりがななのだろう。「野菜サンド」の横に「Vegetable Sand」と書かれているメニューもあった。Sandwichならいいが、Sandは砂だ。ビル管理の「BUIL CARE」は綴りに忠実でいい。「BILL CARE」とすると、「請求書の管理」になってしまうし。

車で都内を走っていたら、「MISIN」という看板を発見した。むろん、ミシンの意だが、語源は「Sewing machine」だから、本来は「MACHINE」と書くべきだろう。ただ、「マシーン」と読まれてしまうと、どんなでっかいミシンかと思われるおそれはある。だったら「ミシン」と書けばいいのだが、英語で書いて視覚的にシャレてみたかったのだろう。シャレているかは別として。

英語で「鉄」はアイアン(Iron)だが、「アイロン」と読むと違うものになる。以前、「日野市」と入力したら「火熨斗」というおどろおどろしい言葉が出てきて驚いたことがあったが、この火熨斗は今でいうアイロンのことだ。意味は同じでもイメージはだいぶ違う。「ご一緒にポテトいかがですか」と言うべきところ、「ご一緒にお芋いかがですか」と言われるようなものだ。お芋って……。

オシャレな業界ではズボンのことをパンツ、チャックはファスナー(ジッパー)と呼び、厳密には違うが、ジーンズをデニム、シュミーズ(死語!)をキャミソールと言い替える。一方、台所関係はレードル(Ladle)やケトル(Kettle)より、お玉ややかんのほうが優勢だろう。ただ日本語で書いた場合、イメージするものはやはり日本古来のキッチン用品、いや台所用品の形状だ。(黒)

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言葉処 其の13「漢字の音読み」

漢音は遣隋使や遣唐使、留学僧が持ち込んだ漢字の音で、呉音はそれ以前に朝鮮半島経由で日本に伝わり定着していた音を指す。「金」は漢音では「キン」だが、呉音では「コン」と読み、これに訓の「かね」や音便化した「かな」が加わり、日本語の読みは複雑になった。このほか鎌倉時代以降に入ってきた唐音(宋音)や慣用音もあるからややこしい。

ちなみに一歳年上の奥さんのことを「金の草鞋(わらじ)」と言うが、ある女性は自分を指して、「私は藁の草履(ぞうり)だから」と言ったそうだ。ワラのゾウリじゃ、そのまんまじゃん! それはともかく、一つ年上の女房は貴重ということで「キンの草鞋」と言う人が多いが、正しくは「かねの草鞋」。むろん、この「かね」はお金ではなく、金属性という意味だ。

読みが分からないとき、旁や脚から推測して読むことを百姓読みと言う。それで当たっていればいいが、「膏肓(こうこう)」を「こうもう」、「直截(ちょくせつ)」を「ちょくさい」とよんでしまうと恥を書く。ところが、「堪能(かんのう)」や「消耗(しょうこう)」は百姓読みの「たんのう」「しょうもう」のほうが慣用化し、今では正しい言葉になっている。

「三品」は「みしな」または「さんぴん」と読み、「さんしな」は重箱読みだ。「大地震」は「だいじしん」だが、大災害と区別して「おおじしん」と湯桶読みすることもある。「極地」は漢音の「きょく」なのに、「極寒」は呉音の「ごく(ごっ)」となる。熟語なら「極寒の極地で極道は究極の極貧を極力極楽に」でも読めるが、「極旨」といった新語になると一瞬迷う。(黒)

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言葉処 其の12「読みがなの不思議」

女性に誘われていよいよというときに、男が出てきて金品を巻き上げる。これを「美人局」と言い、もとは中国の『武林旧事』にある犯罪だが、日本語では、これに「サイコロ博打の筒を細工する」という意味の「筒持たせ」を当てて「つつもたせ」と読ませる。漢字の意味と読みは無関係なので、「美人(つつ)・局(もたせ)」のように分けることはできない。

「香具師(やし)」に至っては音数のほうが少なく、「香具」で「や」と読むのかと思ってしまう。「迷子」は「まい・ご」のように思えるが、これは「昨夜(ゆうべ)」「飛鳥(あすか)」などと同じく二字に一訓を当てた熟字訓だから、「迷子」二字で「まいご」だ。「台詞(せりふ)」「二十歳(はたち)」「七夕(たなばた)」「心太(ところてん)」なども同様である。

「詩歌」は「しい・か」か、それとも「し・いか」なのかと悩むが、本来は「しか」だ。「し」を始めイ段の言葉は「し~~~」のように伸ばしていると最終的に「い」になってしまうが、「しか」が言いにくいので「し・か」のように間を空けて発音しているうちに、SIのIが独立して「しいか」になった。「夫婦(ふふ)」が「ふうふ」になったのも同じ理由だ。

「見出す」はどうか。常用漢字では「出」は「だ」だから「みい・だす」とも思えるし、「詩歌」の例のように「み・だす」が変化したものとも思えるが、「出」は「日出る処の天子」のように「いづ」とも読み、「み・いだす」が正解。ちなみに「いづ」は「でる」という意味だが、「いず」とすると「でない」の意となり、意味が反対になる。(黒)

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言葉処 その11「当て字」

小学生の頃、マンガの中に「部室」というセリフがあり、「へや」というふりがながついていた。「へえ、これで『へや』と読むのか」。知った途端、使ってみたくなった。早速作文の授業のときに無理やり使い、ご丁寧に「へや」というふりがなまでつけて提出したところ、訂正されてかえってきた。このことを家族に話すと、「ばっかだな、当て字だよ」と。

当て字というと、「流行(はや)る」とか「珈琲(コーヒー)」とか、あるいは「読書(ひまつぶし)」といった言葉遊びを思い出すが、たとえば「山」という漢字が大陸から渡ってきて、大和言葉の中にその意味に当たるものを探すと「やま」、だから「山」と書いて「やま」と読まそうというのも当て字だろう。つまり、訓はみな当て字ということになる。

そう考えてみると、「部室」と書いて「へや」と読ませるのも当て字ながら、「へや」という訓に対し、その意味に合う漢字を当てて「部屋」と書くのも当て字ではないのかなと思う。「部」は「べ」であり「へ」ではないが、英語で言えば意味はdepartmentであり、意味も音も近いからちょうどいいやってな具合で当てられたものではないのかしらん。

ただ、一般的に「部室(へや)」は当て字だが、「やま」を当て字だと言う人はいないし、「部屋」とか、「昨日(あす)」といった熟字訓に関しても同様だ。しかし、一般化されているかどうかはどんな基準で決めるのだろう。案外感覚的に決めているのかもしれないが、意味という境界の曖昧なものに対しては、結局はそれしかないのかもと思ったりもする。(黒)

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言葉処 その10「絶対全然ありえない」

「ありえない」は、これから起こることを予想して「起こる・存在する可能性はない」と断じるものだろう。曰く「平行線が交わることはありえない」とか。しかし、最近は、既に起こったことに対して「信じられない」「そんなはずがない」というニュアンスで「ありえないから」のように使われている。大人までもが右にならえだ。

日本語には、この言葉がきたら否定で結ぶことになっている言葉がある。「決して」「いまだに」「ちっとも」「少しも」「必ずしも」「たいして」などがそうだが、「絶対」については「絶対に勝つ」といった言い方も今は不自然でなくなっている。「全然いい」は、昭和の終わりぐらいまでは違和感があったが、ほどなく辞書に載るだろう。

意外なのは「とても」で、今は「とても大きい」という言い方も認められているが、戦前は「とても食えたもんじゃない」のように否定を強める言い方しかなかったそうだ。戦後になると「近頃の若いやつは『とてもいい』なんて言うが」と大人は眉をひそめたが、そう言われた若者たちは後年こう言った。「この頃は『全然いい』なんて言うが」と。

ところが、最近、芥川龍之介の『羅生門』の中に、《下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。》とあるのを発見して驚いた。『羅生門』は大正四年に発表された作品だが、当時「全然」は「完全に」というような意味でも使われていたらしい。となると、最近の「全然いい」は先祖返りなんだろうか!(黒)

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言葉処 其の9「語感とイメージ」

中上健次の小説の『枯木灘』という語感だけに惹かれて、どんな場所か知らないのに和歌山まで行ってしまったことがあった。シーズンオフだったせいか観光客は三人しかいなかったが、潮風が強くて草木が育たないことからその名のついた荒涼とした海岸は絶景だった。ただし、小説のほうは四半世紀を経た今も読了していない。やっぱり重量級の純文学は若いうちに暇と体力に任せて読んでしまうべきだったと思ってももう遅い。

新田次郎の『アイガー北壁』を読んだときも行ってみたくなった。小説もおもしろかったが、「アイガー」の語感がなんともいい。さらにクライネシャイデック駅に氏のお墓があると聞き、それならついでに墓参だと思ったが、スイスとあってはおいそれとはいけない。やっぱり海外旅行は若いうちに突貫工事のバイトでもやって勢いで行ってしまうべきだったと思ってももう遅い。

英語にはいかにもそんなイメージという単語があっておもしろい。「MELT」は実にとろとろと「溶けた」感じがするし、「SKY」はスカッと晴れた「空」という気がする。逆に「CANSER」は、病名にしては車の名前みたいで爽やかすぎる。「あなたは癌です」と言われたらショックだが、「キャンサーです」と言われたら一瞬「かっこいい」と思ってしまいそうだ(なわけないか)。

「空耳」という言葉はなんともイマジネーションをくすぐる。「空」には「空で言う」などSKYとは全く別の意味もあり、「耳」も「パンの耳」など端という意味で使うことがある。そんな意味の広い言葉が重なった「空耳」という言葉を外国人に聞かせたら、意味を特定するのは手探りになるだろう。手探りで探すことを暗中模索と言うが、これを英語圏の人が発音すると「Aren’t you Mosaku?」(茂作さんじゃないですよね)に聞こえるというのはもちろん空耳だ。(黒)

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言葉処 其の8「せっかく亡くなる」

特にホークスファンではないのだが、2004年、2005年とリーグ1位ながら日本シリーズに出られなかった王監督を見ていると、つい応援したくなってしまう。しかし、2006年も2007年もプレーオフに泣いた。プレーオフは今年クライマックスシリーズと改称されたが、ホークスにとってはまさにここがクライマックス。その後は静かなるエンディングになってしまった。

1999年4月30日、このホークス(当時は福岡ダイエーホークス)の創成期に監督を務め、のちに球団フロントとして辣腕を振るった根本陸夫氏が亡くなった。話はそれから少し経った夜、テレビでスポーツニュースを見ていたときのこと、耳を疑うようなコメントが流れてきた。その日、ホークスはなんだか情けない負け方をしたらしく、西武~巨人OBの解説者はこう言って嘆いた。「せっかく根本さんが亡くなってチームに勢いが出てきたというのに」

言うまでもなく「せっかく(勢いが)出てきたというのに」と言ったのだが、「せっかく」という副詞が「亡くなって」を飛ばして「出てきた」にかかるなんて、全文を聞き終えるまでは分からないから、一瞬、「せっかく亡くなって」と聞こえた。
日本語に審判がいたら、「ボーク」(反則投球)と言ってやり直しを命じたかもしれないが、生放送だったから球は全国に発信されてしまった。会話には消しゴムもディレートキーもないから、そこは珍プレーの宝庫、いや真剣勝負の場!(黒)

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言葉処 其の7「秋雨の降る」

春の菜種梅雨に対し、秋の梅雨を秋霖と言うそうで、ここ数週間は雨が多かったが、雨は降り方や降る季節によっていろいろな言い方があっておもしろい。
小糠雨は糠の粉末のような霧雨で、細雨とも言う。もう少し本降りになると地雨となり、もっと降ると大雨、豪雨、雷雨、篠突く雨となる。急に降る雨はにわか雨、通り雨、夕立、肘傘雨などと言い、降り方に強弱があると村雨になる。

春は春雨、新緑の季節は緑雨、五月雨は旧暦の五月に降る雨だ。秋は秋雨、立冬から小雪の間に降る雨は液雨、時雨は初冬にぱらぱらと降る。雪の前の凍った雨は凍雨だ。
心情を映せば涙雨、慈雨といった言い方もあり、ほかにも狐の嫁入り(天気雨)、淫雨(長雨)、酸性雨と例を出せばきりがない。

雨ほど種類はないが、粉雪、牡丹雪、みぞれ、日本晴れ、五月晴れ、花曇りなど日本語には天候に関する言葉が多く、小説や歌詞にも多く登場する。吉行淳之介の芥川賞受賞作『驟雨』は村雨に同じ。谷崎潤一郎の『細雪』は粉雪、佳山明生の演歌『氷雨』は初冬の冷たい雨だが、夏に降るひょうやあられの意もある。浜田省吾の『Indian summer』は日本語で言うなら小春日和のことで冬の暖かい日。森山直太朗の『風花』は空から降る雪でなく、春先に山から飛んでくる雪だ。

英語ではRain、Shower、Cats and Dogs、Squall、Thunderstorm……あとはよく知らない。熱帯地方のどこかの言語では雨を意味する言葉がひとつしかないそうで、天候を表す言葉の数は気候の変化に比例する。中国語では雨はやはり雨と書き、春雨は粉絲または粉条と書くそうだ。と思ったら、この春雨は乾麺の春雨だった。新国劇は『月形半平太』の台本を中国語にする際、春雨を粉絲と訳してしまったら、きっとセリフはこうなるだろう。「春雨じゃ、食べて参ろう」。(黒)

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言葉処 其の6「ふいんき」

倉木麻衣の歌の中に「……歩いた坂道」という歌詞があり、「あるいた」が「あるうぃた」に聞こえる。倉木に限らず、英語交じりの歌詞の場合、「い」が「ゐ」や「ヰ」(ともにwi)になったり、「え」が「ゑ」(we)になったりする。
英語っぽい発音と言えば、最近の若い子は「雰囲気」のことを「ふいんき」と発音するそうだ。理由は定かではないが、やはり「fun-iki」より「fui-nki」のほうが発音しやすいからだろう。そして、それを聞いた周囲の者も「fuinki」が正しいと思ってしゃべり、加速度的に誤読が広まっていく。では、「ふいんき」は誤りなのだろうか。

今では「だらしない」と言うが、正しくは「しだらない」だった。それがいつのまにか正しいほうの「しだらない」という言葉は死語となり、「だらしない」だけが残った。「しだらない」のほうは、今では「不しだら」という言い方にその痕跡をとどめるのみだ。
「あたらしい」も同様で、本来は「あらたしい」が正解。今でも「新たに」「改める」とは言うが、「あらたしい」という形容詞はなくなり、「新しい」だけが生き残った。

「見れる」「食べれる」といったラ抜き言葉も、「行けれる」「書けれる」といったレ足す言葉も、「違かった」も「違くて」も「気持ちかった」も「恥ずい」も、そのうち辞書に載って正解となるかもしれない。それでいいのかと思う一方、「美しかった」と形容詞を過去形にしてしまっているのも相当無理があるような気がするし、「美しいです」に至ってはかつて誤用だった。しかし、誤用、誤用と言ってみても、人は易きに流れる。一般化してしまえば、岡っ引きでも御用にできない。(黒)

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言葉処 其の5「マッチする」

ある年配の方が書いた文章の中に、「私の足は幅広でなかなかマッチする靴がない」という文章があった。これを読んだとき、不覚にも一瞬「マッチするってどんな意味だっけ」と思ってしまった。今も「タイトルマッチ」や「マッチング」という言い方は残っているが、洋服のサイズなどが「ぴったり合う」と言う場合、今は「マッチする」とは言わず「フィットする」と言う。

「マッチする」と言えば、1982年発売のニッサンマーチは、マッチこと近藤真彦をCMキャラクターに起用し、「マッチのマーチは、君の街にマッチする」のキャッチフレーズで売っていた。この当時はまだ「マッチする」のほうが一般的だったということだろう。しかし、1990年代以降、急速に「フィット」が幅を利かせる。

大和言葉は極端に動詞が少なく、体に合う、気が合う、計算が合う、話が合う、目が合う、採算に合う、答えが合う、似合う、リズムに合う……みんな「合う」だ。だから、意味を限定したい場合、漢語を使って、適合、適正、合致、調整、順応、該当、正解、調和と言ったり、外国語を使ってMATCH、FIT、ADJUSTと言ったりする。

《新しい言葉が生まれると意味のすみ分けが起きる》と言ったのはソシュールだったか。漢字を含む外来語渡来以来、「合う」の意味は様々に細分化されてきたが、一方、大和言葉はこれにオノマトペで対抗する。ぴったり、ぴったし、ぴたり、ドンピシャ。日本語に擬音が多いのは、動詞が少ないからだそうだ。(黒)

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言葉処 その4「聞きなし」

近所の野原には極めて地味な声で鳴く鳥がいる。「ジャッジャッ」というか「ジュッジュッ」というか、その中間というか。おまけに姿は見えないし、なんとも影の薄い鳥だなと思っていた。
対照的なのはヒバリだ。こいつはいつも空高く飛んでおり、ピーチクパーチクととても陽気に見えるのだが、説話によるとそれにはせちがらい理由があるという。

ヒバリはお天道様に金を貸しており、太陽に向かって上昇し「日一分、日一分」、急降下して「月二朱、月二朱」、降りてきて「利ー取る、利ー取る」と利息の催促をしているそうだ。
古人は畑仕事でもしながらそんな想像を楽しんでいたのだろう。

このように鳥の声を言葉にすることを聞きなし(聞做)と言い、その例は枚挙に暇がない。
ツバメは「土喰って虫喰って渋ーい」と鳴くそうで、「しぶーい」のあたりは本当にそう言っているようだ。音を擬すだけでなく、生態までも言い表しているところがにくい。

ホトトギスの名はその鳴き声に由来し、聞きなしとしては「てっぺん欠けたか」というものもあるが、薄毛を気にしている人の前では言いにくい。早口言葉で耳慣れているせいか、「特許許可局」とも聞こえる。
メジロは「千代田のお城は千代八千代(または「長兵衛 忠兵衛 長忠兵衛」)、ホオジロは「一筆啓上仕り候」と聞きなす。メジロは「チルチルミチル」、ホオジロは「札幌ラーメン、味噌ラーメン」とも聞きなし、昔話になりそうな味はないが、これはこれでおもしろい。

ジュウイチはそのものずばり「十一」と鳴くが、昔の人はこれを「慈悲心」と聞いた。これに「法華経」と鳴くウグイスと「仏法僧」と鳴くブッポウソウを加えた三鳥を日本三霊鳥と呼ぶ。
ただ、実際にブッポウソウと鳴いているのはコノハズクで、昭和10年、このことが学問的に証明された。経緯は動物文学の戸川幸夫の小説「仏法僧」に詳しい。

聞きなしの多くはさえずり、即ち繁殖期に聞かれる声である。一方、ふだん鳴く声を地鳴きと言い、冒頭の「ジャッジャッ」という声の主を調べたら、なんとウグイスだった。ウグイス嬢など流暢な美声にたとえられるウグイスも、楽屋では別人だったようだ。(黒)

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言葉処 其の3「あやまどり」

少年野球の監督なんてことをやってまして、その日も近所のグラウンドで練習していたら、突然の夕立。近くに雨を凌ぐような場所もなかったので、イナバの物置的な倉庫に少年たちを押し込んだところ、その中の一人、公介君が、「あやまどり?」と尋ねた。それを言うなら「あまやどり」でしょ。

頭の中に「あ・ま・や・ど・り」の語が浮かび、それを順に発音していくべきところ、思わず「あや」と言ってしまい、瞬間的にこれでは「ま」が余ってしまうと判断して「あやま」と発音してしまったらしい。子どもにはよくあることで、「とうもろこし」のことを「とうもころし」と言ったという例は今までに十人以上から耳にした。

公介君にとっては「あま」という組み合わせより「あや」という組み合わせのほうが馴染み深かったのかもしれない。「あやまる」「あやとり」「あやす」など「あや○○」は子どもにも身近な言葉だが、「あま○○」のほうは……。「あまさん」「あまだれ」「アマンド」……子どもはあんまり言わないやね。

こうした言い間違えは口の問題かと思ったが、そうでもないらしい。今しがたワープロで原稿を書いていて「雨宿り」と入力したが、なぜか「綾間取り」と出てしまった。なぜだろうとひらがなに直してみたら、「あまやどり」ではなく「あやまどり」と入力していたのだった。言い間違えは口や手の問題というより、口や手に指示を出している脳の混乱に原因があるらしい。(黒)

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言葉処 其の2「これからもがんばりますので」

プロ野球シーズンたけなわ。ヒーローインタビューでは、「これからもがんばりますので、応援よろしくお願いします」と判で押したように言う。これでは気持ちが伝わらないという向きもあるが、「日本人は気持ちを紋切形式に落とし込むのが好きなのよ、楽だからね。歳暮や中元と同じ。だから許してやろうね」と思う。

許せないのは、「がんばりますので」の「ので」だ。「ので」は、「悪天候だったので、運動会は中止になった」など因果関係を示す接続助詞だ。けれど、「これからもがんばります」と「応援よろしくお願いします」にはなんの因果関係もない。がんばろうとがんばるまいと、応援するのはこっちの自由だと一瞬イラッとする。

しかし、本当は関係ないのではなく、飛躍しているだけだ。つまり、「これからもがんばります」→「がんばって皆さんが喜ぶようなプレーをします」→「だから、応援よろしくお願いします」なんじゃないかと。

だから、「これからもがんばって皆さんが喜ぶようなプレーをしますので、応援よろしくお願いします」と長々と言うか、簡潔に言うならこう言ってしまえば済む。「これからもがんばります。応援よろしくお願いします」(黒)

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言葉処 其の1「WE ARE ALL ALONE」

このコラムでは毎回言葉について記していきます。題して「言葉処」。
お茶処はお茶の産地、サッカー処はサッカーが盛んな土地で、「処」は「ところ」と発音しますが、「言葉処」は「ことばどこ」と読んでください。言うまでもなく回文だからです。

さて、ボズ・スキャッグスに「WE ARE ALL ALONE」という名曲があります。発売当初、確か邦題は「みんなひとりぼっち」でした。そうか、そういう孤独を歌ったものか、って違いますよね。完璧ラブソングです。
「ALL ALONE」は「一人きり」で、主語が「WE(君と僕)」ですから、これは「二人きりだね」と訳すのが正しい。
しかし、これを「EVERYONE IS ALONE」と解してしまったようです。歴史的大誤訳ですね。
かく言う私も、つい最近まで「みんなひとりぼっち」だと思っていました。そして、この名曲が流れるたびに、なんて孤独を感じるメロディーなんだと。もう、バカ!

ということで、今後毎週火曜更新でこのコラムを書いていきます。
お楽しみに。(黒)

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