第36回(最終回)小説の虎の穴 佳作発表

 
第36回(最終回)小説の虎の穴の最優秀賞は、いとうりんさんの「漢字泥棒」に決まりました。作品は公募ガイド3月号(2/9発売)に掲載しています。
ここでは、佳作に選ばれた9編のうち、データでご応募いただいた方の作品を紹介致します。



 ごがすべて
 志水孝敏

 わたしには 他の人とは まるで違う やや奇妙な 習慣がある。
 その習慣を 説明しても、当然ながら 他の人々は 理解しない。
 だが自分は、理解される 必要なんて ないだろう、と思うのだ。
 人生なんて そんなもの、人の生き方 行動基準は それぞれだ。
 各人各様の 意味不明な こだわりに 従いながら 生きるのみ。

 ここまでの 文を読めば、その習慣が お分かりに なったろう。
 常に数字を 五の倍数に 保ち続ける、これこそが マイルール。
 書くときは 一行の数を 五かける五 二十五字に 揃えている。
 話すときは 俳句と同様 五音で話す、話すほうが 実は簡単だ。
 語尾などに 必要に応じ 色々な音を 付け足せる からである。

 「ホントにね、いい天気 ですよねえ!」

 歩くときが なかなかに 大変なのだ、短い距離も 長く感じる。
 いつも五歩、数えて歩く。数え損うと 道を戻って やりなおす。
 一二三四五、一二三四五、もうすぐで 信号がある、あと何歩だ。
 この歩幅は よくないぞ、小股にして 歩かないと 飛び出すぞ。
 一二三四五、一二三四五、よしよぉし、いい位置で ストップだ。
 
 だけれども 歩くよりも 買い物こそ まさに苦行 なのである。
 消費税上昇、これは酷い。鬼の仕打ち と言っても 過言でない。
 5%ならば 許せたのだ。いまは8%。輪をかけて 計算が面倒。
 200円の 商品を買う、5%の時は 210円だ、五の倍数だ。
 しかし今は 200円で 216円を 払うわけだ、面倒である。 
 
 いや原因は 消費税だけ とは言えぬ。はじめから 問題がある。
 物の値段は 五の倍数で ないことが 普通だから、けしからん。
 198円等、末尾の数が 8とされて いることが 多いようだ。
 そのほうが 安く見えて よく売れる、というのが 理由らしい。
 くだらない。そんなこと 考えないで、五の倍数に するべきだ。

 最近改名を 考えている。だがどんな 姓名ならば いいだろう。
 最高なのは 五五五五五 なわけだが、残念な事に 却下された。
 架空の姓は 不可らしい。理想の名字、それは一体 何だろうか。
 五十嵐では 物足りない。調査したら 五伍(ごご)という 名字がある。
 日本国内で 一世帯だけ。五伍さんの 住所を調べ 求婚をした。

 五伍さんは 六十くらい、少し太った 男性だった。問題はない。
 「すみません。五伍さんに 結婚を 申し込み たいのです」
 「はあ? 何を言ってるんですか。警察を呼びますよ」
 「ああそんな。すばらしい その名字。どうかこの わたくしに」
 警察が来た。無理だった。愚かな男だ。だがいつか 結婚したい。 

 昔は自分も ここまでの こだわりは なかったと 思うのだが。
 いつからか 五にせねば 気が済まず、日常生活に 支障が出た。
 いま自分は 治療を受け、社会復帰を 目標として 努めている。
 と言う事に 表向きには なっている。あくまでも 表向きだけ。 
 五こそ至高。五こそ真理。五こそ永遠。治療なんて 不要である。
 
 そしていま、自分は毎日 研究を重ね、ある計画を 進めている。
 超高性能の 冷凍睡眠器、それを開発 するために 粉骨砕身だ。
 西暦の年で 55555 5月5日の 5時55分 55秒55、
 この瞬間に 絶命したい。冬眠をして その日まで 生きるのだ。
 研究は順調。我が人生は 喜びに満ち、極めて充実。すばらしい。
(了)



 オシャロボ回路
 くにさき たすく

 「はかせ。ちょっときいてください」
 「どうしたんじゃ。オシャロボ一号」
 「ちょうしがわるいのです。したがおかしくなってしまったようなのです」
 「下? お前はただ人間と話すことができるだけが取り柄の〝おしゃべりロボット〟じゃろう。生殖機能は付けてなかったはずじゃが」
 「いいえ。そのしたではありません。べろのことです。べろにいわかんがあるのです。しゃべりかたもおかしくなっています」
 「たしかにそうじゃな。さっきからずっとひらがなばかりで、子供に話しかけているような調子じゃ。よし、診てみよう。口を開けるんじゃ。ふむふむ。これはおかしいのう。舌に取り付けてある〝おしゃべり回路〟の一部が故障しているようじゃ。奇妙なしゃべり方になっているのはそのせいじゃろう」
 「なおせますか?」
 「こんなものは、お茶の子さいさいじゃ。これをこうして――さあどうじゃ。しゃべってみい」
 「テスト、テスト。ドウデショウカ。サキホドトハベツノイワカンガアリマスガ」
 「こんどはカタカナだけか。ううむ回路の調整が難しいな」
 「イワユルロボットラシクハナッテイマスガ、モットチャントシャベレタハズデス。ナオシテクダサイ」
 「分かった分かった。確かにカタカナばかりでは分かりづらくて仕方がないわい。これをこうして――さあしゃべってみい」
 「テスト、テスト。同でしょう。な折りました課?」
 「こりゃいかん。ひらがなは復活したが、漢字変換回路がいかれておるようじゃ」
 「感じが只しく返還できないと駒ります。バカだと重われて志摩いま巣。端役(はやく)治せよ」
 「分かっておる。直すとも。しかし急にタメ口になったな。敬語回路も不具合がある様じゃな。合わせて調整しよう――さあどうじゃ」
 「テスト、テスト。復活(なお)った? 先程(さっき)よりは違和感(ひっかかり)が無いような気がするよ」
 「ううむ、おしい。ルビ回路が異常を起こしておる。確かにさっきよりは通じやすいが、完全には直ってないようじゃ。それにタメ口も直っとらん。どうしたもんかのう」
 「さすがの博士もお手上げかな(じいさん早く直せっての)」
 「いかんいかん。酷くなってきおったわい。どれどれ――これでどうじゃ」
 「〒ス┴、〒ス┴。〝とぅでUょぅか」
 「え? なんだって?」
 「〝とぅゃら、ま〝た十目」っτぃませωね」
 「ああ、しまった。お遊びで付けていたギャル文字変換回路が働いてしまったようじゃ。ただタメ口は直ったようじゃな、尊敬の念は伝わってこんが」
 「ぁそω〝τなぃ〝τ、日十<十目」Uτ<〝たさぃょ」
 「何を言っているかよく分からんが、直せばいいんじゃろ。分かっとるわい。よっこらせ――これでどうじゃ」
 「テスト、テスト。どうじゃ? やっと直ったかのう」
 「おやおや、口調がおかしいのう。どうやら言語学習回路がわしの口調まで学習しておったようじゃな」
 「それはいかんな。直るんじゃろうか」
 「直せるじゃろう。あと一歩じゃ。しかし舌の回路が多すぎてわしもこんがらがってきたわい」
 「わしもこんがらがってくるわい。このままではどっちがどっちか分からん」
 「そうじゃな。いま思い出したんじゃが、こういう非常時に使える機能を付けておいたんじゃった。それを試してみるかのう」
 「博士は記憶力が落ちてきておるな。もうろくしたもんじゃな」
 「うるさいわい。ここの奥にあるスイッチを――さあ、どうじゃ」
                        「テスト、テスト。どうでしょう?」
 「よし、直ったな」
                           「やりましたね。さすが博士」
 「これでひと安心じゃな」
                          「まだ少し違和感がありますが」
 「とりあえずはそれで我慢せい」
                          「どんな機能を使ったんです?」
 「こんがらがった舌の回路を綺麗に揃える機能を付けておいたんじゃ。名付けて〝シタ揃え〟機能じゃ」
                        「さすが博士。うまくサゲましたね」
(了)



 たまねぎ
 みなと まりこ

 雨の日だった。
 「ごめんな」
 そんな簡単な言葉とともに、私は彼に捨てられた。彼の傍らには女が一人立っている。大きなマスクで顔はほとんど隠れて見えない。私は、彼をとられた女の顔さえ、ろくに知ることができないのだ。くやしくて、ひっかいていてやりたかった。飛びかかって殴ってやりたかった。それでも、憎しみよりも捨てられた悲しみが、見下される惨めさが勝って、私はその場から一歩も動けなかった。
 それっきり、彼は女の肩を抱き、一つの傘で帰っていた。姿が見えなくなってから、私はやっとなき始めることができた。
 彼は私を愛してくれた。時折喧嘩することもあったけど、それでも仲むつまじく暮らしてきた。ずっと。死が二人を分かつまで一緒だと思っていたのに…。
 鮮明に、彼との思い出が蘇ってきて、びゃあびゃあとないた。
 どのくらいないていただろうか、ふと、雨が止んだことに気がついた。いや、止んではいない。足下の水たまりには雨粒の波紋が広がり続けている。
 「大丈夫?」
 傾けられた傘に、下手な同情だと、思わず苦笑が出る。路上で情けなくなきじゃくる女に声をかけるなんて、どんな軟派者かと思えば、見れば見るほど幸薄そうな男だった。
 「その……ずいぶんずぶ濡れだけど」
 ツンとした態度をとり続けていると、男は困ったように頬を掻いた。
 「うちに来る?タオルくらい貸すよ」
 普段ならこんな誘いはささっと避けて、まっすぐ家に帰る。でも、私はもう帰る家がなかった。今は何か慰めが欲しくて、その日私は、男に抱かれて寝た。 
 私は、その日から、男の家にとどまった。
 男はとても優しかった。私のわがままに振り回され、私が求めれば、その都度愛をささやき、抱いてくれた。どんなことでも話してくれた。妻と別れたこと、会社をリストラされたこと、新しい職場で、あまりよく思われていないこと。時には悲しげに泣くものだから、私は必死で慰めた。男が私にしてくれたように。
 男の所は居心地が良かった。でも私はいずれこの家からは出ていくつもりでいた。彼が嫌いなわけではない。だけど、決して愛しているわけではなかったからだ。
 男は自分のことをたくさん話してくれたけど、私は話せなかったし、彼も知ろうとはしなかった。だから私が突然食事中に倒れたとき、男は相当にあわてた。持病を持っていたのかとか、アレルギーがあったのかとか、何度も謝りながら私を病院にかつぎ込み、「死ぬな、死ぬな」と大げさに泣いた。実際はただの食中毒で、大したことはなかったが、先生に何度もお礼を言うその姿に、顔から火が出るほどだった。それでもその火は、恥ずかしいという感情だけではなかった。私は、出ていく気はなくなったし、嫌い以上の感情は覚えるようになった。
 それから何年がたっただろうか、男の帰りが夜遅くなって、朝まで帰らないことが多くなった。不安に思い、文句を言っても、惚れた弱みか、ぎゅぅと抱きしめられてしまえば何も言えなくなってしまう。幸薄げな顔にも活気が出て、なんだか落ち着かない。前にもこんなことがあった。目の前で彼が急に色めきだし、家の中が閑散とする。そして私を…。
 段々と不安になり、玄関でしゃれた靴を一生懸命はいてる男に、そっと体を預けた。前の彼はなぜだかあの時、とっさに立ち上がり、汚いものでも払うかのようにジャケットをたたいて、私をにらんだ。そうだ、あの後しばらくして私は捨てられた。
 あの時のように、男は私を否定するのだろうか。
 しかし男は私をそっと引き寄せるとそのまま抱き上げた。
 「ひゃっ」という間もなく、私はそのまま男と玄関を出る形になる。
 玄関の前には久しぶりの外の空気と光、そして。知らない女が立っていた。小ぎれいで、地味な女。
 ああ。なんてことだ。私はまた捨てられるんだ。嫌だ。お願い。もう離れたくない!私の家はここ、ここに帰るの!
 ばたばたと暴れる私を、男は「こらこら!」と押さえ込む。女はそれを心配そうに見つめていた。
 「捨てられると思ってるのかしら?」
 「うーん。こら!もうこの家には帰らないんだぞ!俺達の新居に引っ越すんだよ!全く大変だったんだからなペットokのところ!」
 女はそっと暴れたままの私をなでた。
 びゃあびゃあと「鳴き」続ける私が、一安心して、男の膝と女の膝…ちっちゃな膝に飛び乗るは、まだ少し先の話。
(了)



 決闘カルタ
 髙橋由紀子

 やにわに、タカシくんとハヤテくんがどちらからともなく「決闘をする」と言い出した。私は一応「やめときなよ」と止めてみたけど、二人とも聞く耳を持たなかった。だから出してきた、あのカルタを。
 決闘と言ったら、この界隈では、殴り合いなんかじゃなくてカルタ、と昔から決まっている。普通のカルタではない。絵札も読み札も、同じ文字のものが二枚ずつある。それは複製ではなくて、二枚それぞれに別の絵と文言が記されている。これは平等で複雑かつ知的な決闘なのだ。
 しばらく二人には後ろを向いていてもらい、膨大な枚数のカルタを読み手の私が畳の上にまんべんなく並べた。「では参ります」と合図をすると、二人は正座した状態で相対した。「山奥のー、神々が住むー、巌寺ー」
 ぬっと目の前をよぎった色黒の手。タカシくんが『や』の札を血眼で探し、ハヤテくんに先んじて取ったのだ。この地方に伝わる決闘カルタでは、取った札の枚数ではなく、いかに札の頭文字をうまく並べ替えて文章を作れるかで勝敗が決する。より強い〝攻撃文〟を作ったほうが勝ちだ。例えば、「タ・カ・シ・ハ・イ・ヌ・ノ・エ・サ・ニ・ナ・ル」と「ハ・ヤ・テ・ノ・ア・シ・オ・レ・ル」だったら、ハヤテくんの勝ち。だって、この場合タカシくんは死んじゃうってことだから。
 のっけから虎の子である自分の名前の一部を取られたハヤテくんは、だらだらと汗をかいている。私はちょっとかわいそうになって、手元で素早く『し』の読み札を探した。『け』の読み札を敢えて挟んでから、「静かなるー、夜の海原ー、魚介死ぬー」と読み上げると、ハヤテくんは私より速い動きで『し』の絵札を引っぱたいた。今度はタカシくんが悔しそう。男の子たちが自分のために争っている光景って悪くないな、と私は思った。
 ハイレベルな札の取り合いが続く。現時点で二人の名前のうち二文字ずつを読み上げた。これは私が作為的にやったこと。そしてここからが本当の無作為タイムだ。「ぬかるみにー、軽トラの轍ー、二往復分ー」「野の花にー、小便引っかけー、逃げ帰る餓鬼ー」
 関係ない頭文字の札を連続で読んだ。こういう札は並べ替えて文章を作る際に、とても大事になってくるのだけど、まだこの段階では海のものとも山のものともつかない。タカシくんとハヤテくんは、絵札の場所をしっかり確認しているのに手を出さないようだった。互いに牽制しあっているのだ。しばしにらみ合った末、『ぬ』はハヤテくんが取り、『の』の札はタカシくんが取った。
 タカシくんはどちらかと言うと、ワイルド系のマッチョな男の子だ。対照的に、ハヤテくんは色白でほそおもてのいかにもな草食系男子。外見だけで判断するなら、私はタカシくんのほうが好み。けれど、ハヤテくんのほうが紳士だし、なんでも言うことを聴いてくれそう。要するに、どちらが勝っても私はかまわない。それぞれいいところがある二人が、私を取り合って争ってくれているだけで大歓迎なのだ。
 リーチがかかった状態で、双方とも自分の名前の最後の一文字を今か今かと待っている。〝攻撃文〟を構成する他の文字も重要だというのに。「傘の下ー、雨よけきれぬー、スカートの裾ー」先に三文字目を手にしたのは、タカシくんだった。私は、タカシくんを連れて街を歩く自分の姿を想像する。他の女の子たちの羨望の眼差しがありありと浮かんで、気分がいい。次にタカシくんの様子を窺ってみる。あんまりうれしくなさそう。その態度に私はカチンときた。「手鏡にー、映す右目のー、泣きボクロかなー」これで、二人はイーブン。このとき、言うまでもなく、私はまた作意を働かせていた。
 てっきり、決闘はまだまだ続くのだと思っていた。ところが、私がいくら札を読み上げても二人は微動だにしない。「もう勝負は決着した」タカシくんが言う。「僕もここが一番いいやめどきだと思う」ハヤテくんも同意した。二人の持ち札は五枚ずつ。少なすぎる気がしたけど、読み手の私はあくまで決闘の当事者の意思を尊重する。「では並べ替えをお願いします」そう二人に促した。
 【段落の頭の文字にご注意ください】どこからともなく〝注意文〟がアナウンスされる。私はこの声の主を知らない。物語の部外者の声だ。私がその声に気を取られているうちに、二人は互いの持ち札を交ぜてシャッフルしてしまっていた。迷いのない手つきで札を並び替えた二人の声が重なる。不吉なユニゾン。
 「ヤ・ケ・シ・ヌ・ノ・ハ・カ・タ・リ・テ」
 途端に私の体に火がつき燃え上がった。
 「きみの声は、ずっと僕たちに筒抜けだった」

 狸と狐は山へ帰った。決闘カルタは灰となった。今や物語は燃えかすとなり、部外者の私しか語る者がいない――。
(了)



 ゲヌパ色の帽子
 平石勝成

 私は久しぶりに会った同期の純一と隆史、敏夫の三人と社員食堂で昼食を食べていた。
 私は三ヶ月前に結婚したが、三人は未だに独身である。
 「源一郎、お前は結婚して直ぐに支社から本社に戻されるとは、運がいいのか悪いのか」と大盛りの丼飯を食いながら敏夫は言った。
 「まあな」と私は答えた。
 「で、今はどこに住んでいるんだ?」隆史が訊ねた。
 「東町だよ。駅から徒歩二十分のところのアパートを借りている。入社五年じゃそれが精一杯だよ」
 「それは大変だね」と敏夫が言った。
 「そういえばこの前、東町駅の一つ先の西町駅に『ゲヌパ色』の帽子をかぶった二十代ぐらいの美人、どこに住んでいるのかな?もう一度会ってみたいな」と純一が言った。
 「純一、あれ、どうみても四十代のオバサンだよ。趣味が悪いぞ」隆史は箸をふりながら純一の話に突っ込んだ。
 「あの『ゲヌパ色』のベレー帽をかぶった女だろう?相変わらず、純一も隆史も女を見る目がないな。三十代の普通の女性だよ」と丼飯を食いながら敏夫が割り込んできた。
 私は何の話かと訊いたら、先日三人で営業の合間に西町の『リリー』という名の喫茶店で休憩をしていたら『ゲヌパ色』の帽子をかぶった女性をみかけたとか。
 純一はその女性を桐谷美玲に似ている美人と言った。でも、隆史は内館牧子を四十代にしたようなオバサン、敏夫は田畑智子に似ている三十代の普通の女性、三人ともバラバラな感想だった。
 話は段々エスカレートして言い争いになってきた。そこで、みんなで仕事の都合が合う三日後に、西町駅の喫茶店リリーで張り込んでみようということになった。
 私も『ゲヌパ色』の帽子の女がどんな女性か興味が湧いてきたので、一緒に張り込むことにした。
 そして、私は三人に「ところで『ゲヌパ色』ってどんな色なんだ?」と訊いたら、純一が「それは『ゲヌパ色』は『ゲヌパ色』でどんな色にも似てない。見れば解る」と言った。
 隆史も敏夫もうなずいた。
 
 その日の夜、私は自宅でテレビを見ながら妻と発泡酒を飲んでいた。
 妻が私に発泡酒を注ぎながら「源一郎さん、今日西町のスーパーに行く途中で、あなたの大事な弟、源五郎くんと会ったわよ。久しぶりだったけど、元気だったわ」と言った。
 「そうか、源五郎は元気だったか」
 「そうそう源五郎くん、就職が決まったんだって。そのことをお父さんに報告した後の帰りだったらしいわ」
 「なんとか就職できたのか。後で就職祝いでもやってやるか」と言った。妻はにっこり笑った。
 「ところで『ゲヌパ色』ってどんな色か知っている?ネットで検索しても出てこなかったんだよ」と訊いた。
 「私も見たことないし、詳しいことは知らないけど、その色はどの色にも似てないらしく、人を惑わす色と言われているらしいよ。それがどうかしたの?」と言われた。
 私は「いや、たいしたことじゃないよ」と返した。

 三日後の午後二時、私達四人は西町の喫茶店の窓際の席にいた。みなコーヒーをすすりながら外を見張っていた。
 しかし、夕方になっても『ゲヌパ色』の帽子の女は現れなかった。いい加減くたびれてきた私はそろそろ帰ろうかと言った。
 その時、純一が大きい声で「来た!来た!駅の方を見ろよ。やっぱり桐谷美玲似だよ」と言った。
 「どこに目を付けているんだ?どう見ても内館牧子だよ」と隆史は言った。
 「二人とも何言っている?田畑智子だよ」と敏夫は言った。
 純一が指をさす方向を見たら、今まで見たことない色のベレー帽をかぶった人物がこっちの方へ歩いてきた。
 私はあの帽子の色が『ゲヌパ色』だと確信した。百色の色鉛筆を持っているが、そのどの色鉛筆にも似てない色だった。
 そして、誰に似ているのか調べるため窓に近づいて見た。
 その人物は私の弟の源五郎だった。弟が女装して『ゲヌパ色』のベレー帽をかぶっているのだ。

 惑わされているのは私なのか、同期の三人なのか。
 それとも『ゲヌパ色』の帽子を見たすべての人間なのか、解らなくなってきた。
(了)



 わたしの名前
 影山心

 「わたしの名前」
 四年二組 橋本幸子
 今日はじゅ業参観です。わたしの家はお母さんが来てくれています。じゅ業参観にだれかが来てくれるのは生まれて初めてのことなのでとてもうれしいです。お母さんがいる前で作文を読むのは少しはずかしいですが、がんばります。先生に「家族に感しゃしていること」というテーマで作文を書いてくるよう言われ、何を書こうかなやみました。となりの席の耐狼くんはお母さんが毎日おいしいご飯を作ってくれることについて書いているようでした。耐狼くんのおうちは六人家族で、土日は朝と昼と夜の三食分つくっているそうなので、すごいと思いました。六かける三は十八だから、とても大変だと思います。わたしもそのことを書こうかと思いましたが、うちは三人家族で耐狼くんに負けてしまうのでやめました。わたしは自分の名前について書こうと思います。
 わたしの名前は幸子といいます。幸せな子と書いて幸子です。お友達からは頭文字をとって、さっちゃんとよばれることが多いです。わたしを産んだお母さんとお父さんが二人で決めてくれたそうです。でもわたしはこの名前を気に入っていませんでした。わたしもクラスのみんなのようなすてきな名前がほしいなと何度も思ったことがあります。例えば、姫亜羅ちゃんは言葉のひびきもきらきらしていて、明るい姫亜羅ちゃんらしい名前だと思います。それから苺姫ちゃんも女の子らしくてとてもかわいらしい名前です。苺姫ちゃんは先週デザートに出たいちごを、クラスの何人もの友達にもらって一人でたくさん食べていたので、さすがは苺姫だなと思いました。こういう風にかわいくて、世界に一つだけだと思えるような名前がうらやましいです。わたしの名前も世界に一つだとは思いますが、かわいくないし、好きになることができませんでした。幸子なんて変な名前、と芳養虎くんにからかわれたこともあります。だからわたしは幸子という名前がきらいでした。
 小さいころお母さんに、どうしてこんな名前にしたのと何度もたずねたことがあります。いまはいそがしいからあとでね、と毎回あしらわれました。それを見かねた父がある日こっそりわたしに教えてくれました。「子」という漢字は、「一」と「了」という漢字が組み合わさってできています。「一」ははじめ、「了」はおわりという意味があるため、その二つが組み合わさった「子」にははじめからおわりまでという意味があるそうです。人生のはじめからおわりまでを幸せでいられるように。幸子にはそんな意味がこめられていることを教えてくれました。それを聞いたとき、気付いたらわたしはぽろぽろとなみだをこぼしてしまいました。お父さんがわたしの名前をそこまで考えてくれていたことにおどろきました。ずっと自分の名前がきらいだったし、どうせ何も考えずに付けた名前だろうと思っていました。あとで芳養虎くんに名前の由来を聞いてみようと思います。
 その日からわたしは幸子という名前がきらいだと思うのをやめました。今はもうわたしを産んだお母さんもいなくなり、新しいお母さんができました。新しいお母さんはわたしの話を毎日聞いてくれますし、じゅ業参観にも来てくれます。もちろんわたしをぶつこともありません。お父さんがりこんして今の新しいお母さんといっしょになってくれて本当にうれしいです。わたしの名前はお父さんが漢字を考えて、昔のお母さんが読みがなを書いて役所にてい出しました。あのお母さんはもういません。毎年、学年が上がって新しい先生になり、さちこちゃんとよばれるたびに、わたしの名前は「幸子」と書いて「さつりくのじだいにうみおとされしあんこくのひめぎみ」と読みます。と、てい正するのはすごくはずかしかったですが、今は両親に愛され、名前の通り幸せな人生を送っています。
(了)



 存在しない小説
 相馬冬

 「向かい合わせになった列車のボックス席で、君の目の前に座った妙齢の美女が本を読んでいたとする」
 パタンと、音を立てて文庫本を閉じながら陽子がそんなことを言う。
 「それは、君が昨日、読み終わったばかりの本とまったく同一のものだ。何という偶然! 見ず知らずの異性に声をかける、またとない好機ではないか」
 僕は書きかけのレポートから顔を上げ、じっとりとした視線で彼女の方を見返す。
  ローカル列車のボックス席。適度に利いた暖房と、単調に耳を打つ枕木の音のおかげで、僕の意識は先ほどからしばしば夢と現の間を行ったりきたりしていた。
 「……妙齢の美女がどこにいるって?」
 「たとえば、の話よ」
 僕が軽く伸びをしながら辺りを見渡すと、陽子が憤然と腕を組みながら応える。
 大学の冬休み。同郷で同じ大学に入った僕と陽子は、慣れないキャンパスを右往左往するうちに、必然と行動を共にすることが多くなっていた。今も、長い帰省の道中を、無理やりに付き合わされている。
 「──で、どうする? 美女に目のない神山君としては、やっぱり話しかけてお近づきになってみる?」
 「いや、そもそも、そんな偶然はあり得ない。それに、たいていの美女は本にカバーをかけて持ち歩くものだ。がさつな君のような人間と違ってね」
 「同じ本といえば、前々から思っていたことがあるんだけど──」
 僕の嫌味も、まるでどこ吹く風とばかりに陽子はさらりと話題を変え、
 「本ってさ、まったく同じ本を二人が読んだとしても、その個人個人が頭に思い浮かべる風景や世界が、完全に一致するってことってないわよね」
 またおかしなことを言い始めたな。僕は黙って先を促した。陽子の振ってくる話題というのは、とにかく最後まで聞かないとまるで意味が分からないことが多い。
 「例えば、映画や絵画、音楽っていうのは、その面白さや芸術性を理解できる、できないはともかく、誰が観ようが聞こうが、内容が変わることはないじゃない。『風と共に去りぬ』のラストシーンと言われれば、あの風景の中、ヒロインがこういう演技をして、印象的なテーマソングが流れて、と、観た人なら全員が全員、同じイメージを共有することができる」
 はあ、なるほど。何となく、陽子が言わんとしていることが見えてきた。
 「けれど、小説は文字だけの表現だから、読んだ人の数だけそのシーンに対するイメージが違ってくると、こう言いたいのか」
 「まさしく」
 なにやら偉そうに腕を組みながら、陽子は座席に背をあずける。
 確かに「夜の底は白くなった」とか、「クラムボンはカプカプ笑ったよ」とか書かれても、想起するイメージは人それぞれだろう。
 「そこが文学の深いところなのかも知れないけど、でもさ、一度は読んでみたいじゃない。作者が思い描いたイメージを、完璧に追体験できる小説ってものをね」
 そう言って、どこか物憂げな視線で窓枠に頬杖をついた。
  沈黙が二人の間に落ちた。しばらくの後、僕はノートに走らせていたペンを止めると言った。
 「それならここにある」
 僕は、今まで書いていたページを開いて、陽子の前に差し出した。
 「言語学のレポートにも飽きて、さっきから、僕と君が会話していたシーンを小説風にノートに書き起こしていたんだ」
 それは、陽子が「向かい合わせになった列車のボックス席で、君の目の前に座った妙齢の美女が本を読んでいたとする」と言ったシーンから始まっている。
  パタンと、音を立てて文庫本を閉じながら陽子がそんなことを言う──、という文が次に続き、「やっぱり存在しないのといっしょ」という彼女の台詞がラストシーンだ。
 「これは、この時、この場所、このシーンを切り取って小説にしたものだ。これなら、作者である僕と、読者である君が思い描くシーンというものは、寸分の違いもなく同じものになるはずだ」
 「……そうね、確かに」
 陽子は言って、ノートを手に取った。それから何の躊躇もなく、僕が今、書き上げたばかりの小説の部分を破り取ると、中身が読み取れなくなるまで、ビリビリに切り裂いた。
 「ただし、あたしが読まなくては」
 勝ち誇ったように、彼女はにやりと笑う。
 「やっぱり、存在しないのといっしょ」
(了)

|

第35回小説の虎の穴 佳作発表

 第35回小説の虎の穴の最優秀賞は、井上真二さんの「十七歳のソルティドッグ」に決まりました。こちらは公募ガイド2月号に掲載しています。
 ここでは、佳作に入選した9編のうち、データで応募された8編を紹介します。



 煮干の恋
 妻曲 斉

 煮干のいわ奈といわ二が初めて顔を合わせたのは、乾物屋の煮干袋の中だった。仲間たちはみな干からびて、「ガサゴソ、ガサゴソ」と体をこすり合わせていた。
 その中に一匹だけ都会の香りがする煮干がいた。仲間はみな銚子沖産の煮干だった。いわ二は、都会の香りがする煮干に声をかけた。
 「君は何処から来たの。名前は何ていうの」
 「私はいわ奈っていうの。東京湾から来たのよ」
 訛りの無い東京弁で話す。いわ二は興味を覚えて、続けて尋ねた。
 「へぇ~大都会だね。ネオンが煌めいて、賑やかだろうね。俺なんか毎日銚子沖の荒波に洗われて、灯りと言えば灯台だけだよ」
 と、癖のある荒っぽい銚子弁で話すと、いわ奈はくすっと笑って
 「いいわね。そんな大海でのびのび泳げて。私もそんな大きな海で泳いでみたかった」と言う。
 いわ奈といわ二は話しているうちに親しみを覚え、互いに恋心を抱くようになった。

 「おじさん、この煮干一袋頂戴」
 三十前後の元気な奥さんが煮干袋をわしづかみにすると、自転車の籠に放り込み、威勢よくこぎ出した。
 煮干袋の中は大変。地震のように揺すられる。この時とばかりに、いわ奈といわ二はしっかりと抱き合い、揺れの静まるのを待った。
 「良太、今夜は煮干の味噌汁だからね」
 腕まくりをしながら、元気な奥さんが良太に言うと、
 「僕、煮干の味噌汁は嫌いだな。カツオダシがいいよ」と不満顔。
 「何贅沢言ってるの。いろいろ食べなきゃダメ。骨を丈夫にするには煮干が一番」と、聞き入れない。
 しぶしぶ煮干の味噌汁を食べた翌日、学校から帰ると煮干の袋を持ち出し、「僕は煮干の味噌汁は嫌いなんだ」と、江戸川に投げ込んでしまった。

 煮干たちは、水を得て一斉に元気な鰯に戻った。いわ奈といわ二は手を取り合って、塩味のする東京湾目掛けて泳ぎ始めた。
 「うわ~すげぇ。これが東京湾か。大都会だね。ディズニーランドもあるし、お台場もある。いわ奈はこんなところで泳いでいたんだ。どおりで都会の臭いがすると思った」
 いわ二は、初めて見る都会に興奮していた。
 「でも私はいわ二の故郷、銚子沖の大海に行ってみたいな」
 「じゃ案内する」と、タンカーの波に翻弄されながら房総沖に出た。潮の流れも香りも変わる。大きなうねりに身を任せながら銚子沖に辿り着いた。
 「うわ~気持ちいい。こんなに広々とした世界があったんだね。灯台も素敵。磯で釣りをしている人もいる」
 いわ奈は興奮を抑えきれず、いわ二に抱きついてきた。いわ二もいわ奈をしっかりと抱きしめた。「煮干の恋」が実った瞬間だった。
 「世界の海はもっともっと広いよ。太平洋だけじゃなくて、大西洋という海もあるんだ。カリブ海と言って、一日中歌ったり踊ったりして、愉快な海があるそうだよ」と、いわ二が教える。
 「私も行きたい。また煮干にされる前に、一度でいいから行ってみたい」
 いわ奈はいわ二の手を取って、目を潤ませた。

 「じゃこうしよう。俺は太平洋を越えて大西洋に行く。君はインド洋を越えて大西洋に向かうんだ。そしてカリブ海で会おう」
 「そんな無謀なことをするの。一緒に行きましょうよ」といわ奈が懇願するのを遮って、
 「これが俺たちの冒険なんだ。カリブ海に辿り着いたら、そこで結婚式を挙げよう」といわ二が言う。
 「でも辿り着けるかしら。サメに食われるかもしれないし、道を間違えるかもしれないし・・・」
 いわ奈は不安気だ。
 「大丈夫だ。俺たちの愛の深さを試すんだ。必ず辿り着ける。寂しくなったら、夜空に浮かぶ月を見よう。それが君だと思って頑張るよ」
 二人は再会を誓い、右と左に別れて泳ぎ始めた。

 いわ二は必死に泳いだ。やがてハワイ沖に辿り着いた。フラダンスの音楽が聞こえる。太刀魚のように踊ってみた。いわ奈と別れて一カ月が経つ。毎晩月を見て、「いわ奈っ」と叫んでいた。今日の月は満月だ。いわ奈が手を振っているように見える。涙が溢れてきた。
 いわ奈も必死で泳いでいた。インド洋では台風に遭い、砂浜に叩きつけられ気を失ったこともあった。「いわ二に会いたい」の一念で泳ぎ続けた。
 いわ二はアメリカ大陸沖を南下していた。すでに二カ月が過ぎた。次第に海水が冷たくなってきた。マゼラン海峡に差しかかる。危険な海域だ。フンボルトペンギンが群れを成している。大西洋に入った。潮の香りが変わる。海の色もエメラルドグリーンだ。タンゴのリズムも聞える。間もなくカリブ海だ。
 いわ奈は月を見てはいわ二を思い出し、銃声の聞えるアフリカ大陸沖を南下していた。危険な海域喜望峰を越えると、いわ二が泳ぐ大西洋だ。サメに追われ、泣きながら大西洋に辿り着いた。もうすぐカリブ海だ。
 二人は四か月後、カリブの海に到着した。もう結婚式はどうでもよかった。抱き合ったまま溺れ死んでもいいと思った。黒や白、茶色の鰯が、歌や踊りで賑やかに祝ってくれた。
(了)



 スージーの嫁入り修行
 三浦幸子

 むかしむかし、あるところに、ガリガリに痩せたスージーという娘がいました。彼女は、同じ村のサムが大好きでした。年頃になると、いつもサムの後をついて行き、どうにか嫁に貰って欲しいと願っていました。
 「ねえ、マリーちゃん。サムは、どんな女の人が好きなのかしらね。私がそばに居ても、見向きもしてくれないのよ」
 友達のマリーは、気の毒そうな顔をして言いました。
 「サムさんは、ぽっちゃりした人が好きだって聞いた事があるよ。スージーちゃんは、痩せすぎてるからねえ」
 スージーは、がっかりしました。太りたくても、貧乏で子だくさんのスージーの家では、食べる事さえままならないのです。どうすれば、サム好みの体型になれるのか、スージーはずっと考え続けました。
 そんなある日、伯父が、スージーに奉公の話を持ってきました。
 「なあ、お前も年頃になって、家の手伝いばかりしていても仕方ないだろう。食べざかりの弟や妹を助けると思って、奉公に行かないか?」
 「でも、伯父さん、私はここからお嫁に行きたいの。好きな人だっているし、遠くへ奉公に行っちゃったら、お嫁に行けなくなるわ。あの人の見えない所へ行くなんて、寂しくて死んじゃうわ」スージーは細い肩を震わせた。
 「その、好きな人とは約束でもしてるんかい?」
 「ううん。でも、私がぽっちゃりしたら、きっと迎えに来てくれるわ」
 伯父さんは、呆れたように首をひとつふると、
 「食うや食わずのこの家じゃ、ぽっちゃりなんて一生かかったってならないよ。それより、奉公先ってのが、ケーキ屋なんだ。菓子でも食ってりゃ、すぐ太るさ」
 伯父は、商売物のケーキを奉公人が食べられるとは思わなかったが、とにかくこの家から連れ出そうと苦し紛れに言った。案の定、スージーは、顔をくちゃくちゃにして嬉しそうに言った。
 「行きます。伯父さん。ぽっちゃりになるなら、どんな苦労も平気です」
 こうして、スージーは、家からずいぶん遠いケーキ屋に奉公に行く事となった。
 
 奉公先では、朝から晩まで、休みなく働かされ、スージーの体つきは、ますます細くなっていった。
 「伯父さんは嘘つきだわ。ケーキが食べられるなんて嘘ばっかり。ごはんを食べる暇だってないじゃないの。これじゃあ、サムさんとだって、いつ結婚できるやら……」
 スージーは、どうすればケーキが食べられるか、そればかり考え続けた。
 毎日、神様にもお祈りしているのに、神様は私の事を見捨てたのかしらと、悲しみにくれていたある日のこと、売れ残りのお菓子を捨ててくるように主人に言われた。
 固くなったり、美味しくなくなったりしたものを捨てるという。
 かごの一番上に乗っていた菓子は、スージーを手招きしているように見えた。ひとつぐらいならばれないだろうと食べてみた。とろけるような味だった。
 上手い具合に、それからは菓子を捨てに行くのはスージーの役目となった。
 最初はひとつだけだったのが、ふたつになり、みっつになりと増えていった。

 半年ほどたった頃、スージーの体型に大きな変化があり、さすがに店の人にもつまみ食いが知られるところとなり、スージーは、奉公先を追い出されてしまった。
 けれど、スージーは悲しくなかった。
 急いでサムの所に飛んでいき、
 「サムさん。私、あなた好みのぽっちゃりになったわ。お嫁にしてね」と言った。
 「お前、誰?」
 「スージーよ。ずっと一緒にいたじゃない。サムさん、ぽっちゃりが好きなんでしょ?ずいぶん苦労してあなた好みのぽっちゃりになったのよ」」
 「頼んでないし――おれ、デブは苦手だな」
(了)



 桃太郎?
 安藤一明

 むかしむかし、あるところに、おじいさんと、おばあさんがいました。
 おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
 おばあさんが川で洗濯をしていると、川の上流から大きな桃が流れてきました。
 「おや、美味しそうだ」
 おばあさんは、桃を拾い、家に持って帰りました。おじいさんとおばあさんは、桃を食べることにしました。
 おばあさんが桃に包丁を入れると、なんと中から赤ちゃんが出てきました。男の子のようです。
 二人は驚きましたが、その赤ちゃんを育てることにしました。桃は記念として、取っておくことにしました。
 赤ちゃんはすくすくと育ち、立派な青年になりました。青年は「桃太郎」と名づけられました。
 一つだけ不思議だったのは、桃太郎の後頭部でした。何故か、鈍器で殴られたような傷があったのです。おじいさんたちには、どうしてそんな傷があるのか、わかりませんでした。
 桃太郎は、ある日、村の人から頼まれて、鬼退治に行くことになりました。
 桃太郎は、犬と猿、キジを仲間にして、鬼たちの住む島へ攻め込みました。
 数日後、桃太郎は、たくさんの宝物を持って、おじいさんたちのところへ戻ってきました。
 家に着いた桃太郎は言いました。
 「おい、じじいとばばあ。俺は鬼を退治した英雄だぞ。こんなまずい飯が食えるか。もっとちゃんとした物を出せ」
 桃太郎は、おばあさんの出してくれたご飯を、卓袱台ごとひっくり返しました。さらに後片付けをするおばあさんを蹴飛ばして、桃太郎は吐き捨てるように言いました。
 「これから町で女と遊んでくる。金を持って来い」
 おじいさんは、おばあさんの後片付けを手伝いながら言います。
 「確かに、家は桃太郎の持って帰ったお宝のおかげで金持ちになった。しかし、桃太郎があまりに散財するので、お金はほとんどないんじゃよ」
 桃太郎は顔を真っ赤にして怒りました。
 「じゃあ、盗んででも金を作れ。俺は英雄なんだ」
 桃太郎は、家を飛び出しました。
 家の外には、一緒に鬼退治に行った動物たちがいました。桃太郎は、三匹の動物を見て、うんうんと頷きました。犬に言いました。
 「おい、犬。お前は賢いだろ。どこかの家から金を盗んで来い。動物なら罪にはならない」
 次に猿をじっと見て言います。
 「猿、お前は芸が達者だろう。見世物にして金を稼がせる」
 最後にキジに言いました。
 「お前はキジ鍋の材料として売り払ってやる。最後に人様の空腹を満たす役ができるんだ。誇りを持って成仏していいぞ」
 桃太郎は、嫌がる三匹の動物を無理に引き連れて町へと出かけていきました。

 その頃、おじいさんとおばあさんは、家で話し合いをしていました。
 「ばあさんや、桃太郎は昔は正義感の強いいい子じゃった。しかし、鬼退治で英雄扱いされてすっかり人が変わってしまった」
 おばあさんも悲しそうに言います。
 「桃太郎には悪いが、これ以上あの子と暮らすのは無理じゃ。おじいさん、今夜、決行しましょう」

 その夜、桃太郎が寝室で寝ていると、おじいさんが忍び脚でやって来ました。手には太い木の棒が握られています。
 おじいさんは、ぐっすり眠っている桃太郎の後頭部に棒を思い切り叩きつけました。桃太郎は気を失いました。
 気絶した桃太郎を、おじいさんとおばあさんは協力して、取っておいた桃の中に閉じ込めました。そして、その桃を川に流しました。
 不思議なことに、桃太郎は桃の中で赤ちゃんへと戻っていきました。

 むかしむかし、あるところに、別のおじいさんと、別のおばあさんがいました。
 おばあさんは洗濯のために、川に行きました。すると川の上流から桃が流れてきて……。
(了)



 狼中年
 鐘子一

 むかしむかしあるところに、人口千人の村がありました。村人は皆、童話の登場人物たちでした。
 IT化の波は、そんな村にも押し寄せています。その上、昨今の不景気で、街へ出かけて遊ぶ経済的余裕もありません。家にこもりがちになった村人たちの間では、ソーシャルネットワークが流行し始めました。牧場で働くかつての少年、いまではすっかり中年になった男も、ご他聞に漏れずハマっております。
 男は仕事に出かける素振り見せず、寝転んではスマホを片手に、不器用な指使いで、毎日お決まりのフレーズばかりつぶやきます。   
 でも誰からも反応がなくて、つまりません。
 そこで参考のために、他の村人のつぶやきをチェックしてみることにしました。

#おじいさん、おばあさん、ついに鬼たちを征伐したよ! お宝たくさん持って帰るからね@いいね!3件

 「桃太郎か。三匹のお供の『いいね』だな」
 つぶやきを読んで『いいね』と思えば、それを伝えることもできるのです。男は、たどたどしい指使いで、画面を読み進めました。

#なんと! キスしたら姫の目が覚めた。城に戻って幸せに暮らします@いいね!7件

 「この『いいね』は、小人たちってわけか。森の中じゃ、GPS機能が便利だろうな」
 自分の仕事相手がスマホを使っていないのが、男にはもどかしく感じられました。

#ついに屋敷をつきとめた。今夜アリババを襲撃する。各自アジトの油壺の中で待機せよ@いいね!40件

 「頭領のつぶやき……40件か。いいなあ」
 盗賊のことさえ、羨ましくなりました。
 「でも手下は39人の筈なのに、一人多いなあ」
 事前に襲撃の計画を知って対策を立てることができたアリババの『いいね』でした。

#金のガチョウのおかげで、王様の一人娘と結婚できることになったぞ@いいね!83件
#俺は見た。でも言えない、けど言っちゃお。王様の耳は……ロバの耳!@いいね!156件
#王様って、実は裸だよね@いいね!428件

 『いいね』の数が、けた違いです。
 「王様をいじればウケる、って寸法か。それじゃひとつ、俺もからかってやろう」
 男は「王様」と入力したつもりでした。スマホの予測変換で、よく使っている別の単語になっていたのですが、気づきませんでした。

#お、お、狼が来たぞー お、お、狼は裸でロバの耳だぞー@いいね!0件

 いつまで待っても『いいね』が増えてくれないので、「もうソーシャルネットワークなんて無くなってしまえ!」と男はふてくされて早々と寝てしまいました。
 翌日になってようやく、男は村の門の外にある牧場に、しぶしぶ出かけていきました。男の職業は、羊飼いなのです。
 すると、どうでしょう? のんびりと草を食んでいるはずの羊たちが、一匹たりとも見あたりません! そのかわりに辺り一面が血の海でした。男がサボっている間に現れた狼たちに、羊は食べ尽されてしまったのにちがいありません!!
 「な、なんてことだ……あっ、あれは!」
 狼の群れが、男が開けたままの門を通って、村の中に駆け込んで行きました。
 「村人たちに逃げるように伝えなきゃ!」とスマホを取り出して、おぼつかない指使いで危険を伝えました。村人も、今回ばかりは男のつぶやきに反応してくれることでしょう。
 でも慌てていた男は、誤って変換された単語のまま、つぶやいてしまっていました。

#お、お、王様が村の羊を一匹残らずたいらげてしまったぞー@いいね!238件

 男の心配と正反対に、見る見るうちに『いいね』が増えていきました。

#王様が村に来てるの?@いいね!337件
#マジ? 王様、見たーい@いいね!482件
#王様の行き先、教えて!!@いいね!641件

 「だ、だめだ、家から出たりしちゃ危ない!」

#お、お、王様は門から入って村の広場に向かってるぞー@いいね!999件

 王様を探しに家を出た村人たちはみんな狼に食べられて、男は独りぼっちになったとさ。
(了)



 理想と現実
 西方まぁき

 むかしむかし、あるところに、たいそう首の短いオスのキリンがいました。
 両親は、大人になってもたいして身長が伸びない、つまり首が長くならない我が子を見て、心を痛めていました。
 この子は、木の高いところの葉を食べることができないから、将来生き延びられないのではないか。
 親が生きているうちは面倒をみてあげることができました。
 でも、親もだんだん年をとり、面倒を見られなくなり、とうとう死んでしまったのです。
 そのキリンは大人になってもひときわ首が短かったので、他のキリンから仲間と見なされず、いつもひとりぼっちでした。
 群れの中には、ひときわ美しい若いメスのキリンがいました。
 そのメスは人気者で、いつも若いオス達に囲まれていました。
 近い将来、あの中で一番首が長くて逞しいオスと結婚するに違いない。
 首の短いオスはそう思っていました。
 ある日、いつものように遠くから群れの様子と眺めていると、偶然、その一番美しいメスと目が合いました。
 あまりにもびっくりしたので、目を逸らすことができません。
 お互いに見つめ合っているうちに、どんどん時間がたち、いつのまにか日が暮れてしまいました。
 最初に一歩前に踏み出したのはメスでした。
 トコ……トコ……トコ……
 首の短いオスは、それに合わせて後ろに下がりました。
 トコ……トコ……トコ……
 両者は一定の距離を保ちつつ移動し、気がつくとあたりは真暗で、まわりには誰もいませんでした。
 「ねぇ。もう、いいかげんにしてもらえないかしら」
 メスが不満そうに言いました。
 「なにがですか?」
 首の短いオスはとまどいながら訊ねました。
 「そうやって逃げるのは」と、言いながらメスが首の短いオスのすぐ近くにやって来たのです。
 「私達は恋に落ちた。そうでしょ?」
 もう顔も触れ合わんばかりの「近さ」です。
 首の短いオスは心臓がドキドキして苦しくなってきました。
 「でも……ボクは……」
 まわりの誰もが知っているその事実を口にするのは、とても勇気がいりました。
 「首が短い」
 うなだれるオスの頭上で「フン」と鼻を鳴らす音がしました。
 「なんでも首のせいにするのはやめてもらえるかしら」
 メスは長い睫毛のつぶらな瞳でオスを見おろし、優しく微笑みました。
 「あなたが届かないところにある葉っぱは私がとってあげればすむことでしょ」
 メスは高いところに首を伸ばし、葉っぱを数枚食いちぎり、オスに差し出しました。
 オスは差し出された葉っぱを素直に食べました。
 ムシャムシャムシャ……
 その葉っぱの味は格別でした。
 ムシャムシャムシャ……
 「おいしくて、しあわせです……」
 「そう言ってもらえると、私もしあわせ」
 ムシャムシャムシャ……
 闇の中で草を食む音だけが聞こえました。
 その後、すぐに、ふたりは結婚しました。
 まもなく子供が産まれました。
 父親に似て首の短いオスです。
 「心配することはない」
 首の短い父親は首の短い息子に言いました。
 「首が短いことを言い訳にしなければ、たいていのことは、きっと、うまくいく」
 首の短い息子は首の短い父親の言葉を信じて生きることにしました。
 「首が短いことなんて、関係ない」
 自分にそう言い聞かせてやってみましたが、高い木の葉には届かず、群れには入れてもらえず、年頃になっても自分を好きになってくれるメスなど現れませんでした。
 父親に起こったような「奇跡」はおこらなかったのです。
 たまたま、そういう運命だったのかもしれませんが、そもそも「奇跡」は、めったに起こらないから「奇跡」なのです。
 父親が言ったことは、あくまで「理想」で、「現実」は、こんなものです。
 ある満月の夜、首の短い息子は、ひとり寂しく短い生涯を終えました。
(了)



 素晴しきシステム
 広都悠里

 むかしむかし、っていってもそんなにたいした昔じゃない。まだ紙幣とか硬貨なんてものを人が持ち歩いていた頃の話だ。今なら指一本、指紋認証コードだけで買い物できるんだけどね。まあ、そういう時代のお話だ。
 その日はなぜか仕事がうまくいかなかった。納品予定の品物の到着が遅れたり、使用したデーターが最新の物ではないことが発覚して企画書を作り直さなくてはならなくなったり、散々な一日だった。
 その日の予定をなんとかやり終えてフロアを出て、エレベータに乗った。時計を見るともう十時を回っていた。
 疲れた。腹減った。昼飯を食う暇もなかった。コーヒー一杯飲むことすら思いつけなかった。トイレはどうだ?行ったっけ?思いだせない。
 トイレのことを考えたせいか急に行きたくなってきた。エレベーターを降りてビルの一階の入り口付近にあるトイレへ駆け込む。先日改修工事が終わったハイテクトイレはぴかぴかで気持ちがいい。自動で明かりがついて便座から立ち上がれば自動洗浄。手を使うことはほとんどない。個室に入りかばんをドアのフックにかけた。はあ、やれやれ、やっと落ち着いて座ったと思ったら便座の上とはね。その時、電話が鳴った。え?まだ何かあるの?冗談だろ、慌てて立ち上がりかばんをつかむ。開けたかばんからボールペンが転がり落ちた。
 拾おうとしてバランスが崩れる。クリアファイル、社員証、ばたばたと床に落ちて拾っていると、便器からずおーっと音が響いて水が流れた。
 「うわ」
 ばしゃん。黒っぽい何かが落ちた。あ、と思った瞬間飲み込まれ、白く輝く便器は入った時と同じ透明な水をたたえた静かな状態に戻った。
 「嘘だろ」
 黒くて四角い、あれは財布?まさかね。血の気が引いた。もう一度、便器を見る。しゃがんで底を覗きこむ。財布の角でも見えたなら手を突っ込んで取り出す覚悟はできていた。
 つるんと白い便器の底には何の影も見えない。力強い水流の優秀な性能を呪いたくなった。
 「流す時に少しくらい躊躇しろよ」
 便器に文句を言っても無駄だと知りながらも言わずにいられない。
 これって落とし物になるのだろうか?警察に言えばいいのか?いや、下水道だから水道局にいうべきか。でも水道局はもう閉まっている。
 定期はあるから家には帰れる。それがせめてもの救いだ。道の両側に並ぶ派手派手しい看板がやたら目につく。漂ってくる匂いが胃袋を直撃する。しょうゆの香ばしい匂いは焼き鳥だろうか。狂おしいほどのカレーの匂いによろめきそうだ。ついさっきまでは感じなかった空腹感が一気に遅いかかってきた。何でもいいから口に入れたい。
 そうだ。定期にいくらかチャージされているはずだ。売店に駆け込み、目についたガムやチョコレートを差し「あとお茶も」と付け加える。
 「あの」
 気の毒そうな顔でカードを返された。
 「残金が三十円しかないのですが」
 どうしてもっとチャージしておかなかったんだ。自分で自分に腹が立つ。
 「あ、そうですか。じゃ、いいです」
 目の前が暗くなる。
 お金がないわけじゃない。銀行に行けばまとまった金額をおろすことができる。家に帰ればいくらかは置いてある。なのに買えない。店にも入れない。こんなにお腹が空いているのに。何も目に入らないようひたすら家を目指して帰る。
 このことがきっかけでお金を持たなくても指定した口座から指紋認証で買い物できるシステムを開発したってわけだ。
 もっとも今の形になるまではいろいろあったらしい。システムの開発、不具合、セキュリティ問題、全部クリアするまでは結構な年月がかかった。
 今では年商何兆円といわれる大企業の始まりはこんなものだったんだ。昔々の話だよ。僕のおじいさんのそのまたおじいさんの話だもの。
 正直、紙幣や硬貨なんてと言われても昔、博物館で見たことがあるだけで、全然ぴんとこない。財布なんて使ったこともない。
 え、かかってきた電話の内容?それは聞いていないな。きっとたいした用件じゃなかったんだ。ただの昔話だよ。本当の話かどうかもわからない。でも、この素晴らしいシステムがそんなきっかけで作られたと思うと、ちょっと笑えるだろう?
(了)



 雪女?
 石富山

 「むかしむかしあるところに、二人のきこりが居ったそうじゃ」
 公園のベンチに腰掛けた淳司少年は、隣に座る老婆の言葉に耳を傾けていた。小学校三年生の淳司少年は学校から帰ると、決まって公園で日向ぼっこしているヨネを訪ね、ヨネにお話をせがむのだった。ヨネが続けた。
 「きこりは茂作という老人とみのきちという若者で、ある冬の日の夕暮れ、家に帰る途中で酷い吹雪に遭ったのじゃ。家に帰るには大きな川を渡し船で渡らにゃならんのじゃが、船小屋に船頭の姿が無い。仕方がないから二人はしばらく船小屋で船頭の帰りを待つことにしたんじゃが、しばらくすると眠ってしまった。どれくらい時間が経ったか、みのきちはあまりの寒さに目を覚ました。見るときつく閉めたはずの小屋の戸が開いて、吹雪が吹き込んでおったのじゃ。暗闇に目が慣れてくると、茂吉の側に一人の女がしゃがみ、顔に息を吹きかけている様子が見えたんじゃが、みのきちは恐ろしくて声も出せずにおった。やがて女はみのきちの側に来て、言ったんじゃ」
 「何て言ったの?」
 ごくりと唾を飲み込んでから淳司少年が聞いた。怖いのか、両手をきつく握り、膝に押し付けていた。
 「その女はみのきちの顔のすぐ前で、『お前もあの年寄りみたいにしてやろうと思ったが、まだ若いし見逃してやる』と言ったんじゃ。みのきちはその女の顔がとても美しい事にその時気付いたんじゃが、そのまま気を失ってしまっての、次の朝、吹雪が止んで戻ってきた船頭に揺り起こされると、茂吉は既に冷たくなっておったそうじゃ」
 「死んだの?」
 「ああ、雪女に凍え死にさせられたのじゃ」
 「何でみのきちさんは死ななかったの?」
 「そりゃあ、みのきちが若くてイケメン…… まあ、雪女にも事情があったのじゃろう」
 「それで、どうなったの?」
 「それから、みのきちはその晩の事を誰にも話さずにいたのじゃが、心の中ではもう一度あの美しい雪女に会いたいと、ずっと願っておった。あの出来事からちょうど一年ほど経った、ある吹雪の夜、みのきちは町で困ったようにきょろきょろとあたりを見回している一人の女と出会った。何でも江戸に行く途中なのだが、宿が見つからず困っているとのことじゃった。『それならうちにお泊りになりませんか?』と、みのきちは誘ったのじゃ。みのきちの目には、その女は一年前の吹雪の晩に見た、あの雪女にそっくりの美しい女に映っていたのじゃ。はじめは迷っていた女も、みのきちの熱心さに最後は根負けして『分かりました。ではお言葉に甘えて……』と言ってみのきちの家に泊まることにしたのじゃ。じゃが、翌朝目が覚めて、横に寝ている女の顔を見たみのきちはぎょっとして飛び上がった。そこにいた女は、あの雪女とは似ても似つかぬ顔立ちをしていたのじゃ」
 「ふうん、何で顔が変わっちゃったの?」
 淳司初年が不思議そうに聞いた。
 「顔が変わったのじゃない、男はな、たまに見間違うもんなんじゃ」
 「……まあいいや。それから?」
 「それからな…… 女は昼になっても一向に出発する様子がない。不思議に思ったみのきちが尋ねてみると、『すみません、何だか足が痛くて。もう一晩お世話になる事が出来ますか?』そう言われては断る事も出来ず、もう一晩、次の日は『風邪気味で……』と延び延びになってしまったのじゃ」
 「江戸に行くの、やめたちゃったの?」
 「ああ、そのうちにな、女の腹もだんだん大きくなってきてな、もう旅どころではなくなってしまったのじゃ」
 「ふうん……」
 もはや、理解できない様子で淳司少年はヨネを見ていた。
 「まあ、大人にはいろいろと事情があるんじゃよ。さ、これで最後だから」
 ゴホンと咳払いして、ヨネは続けた。
 「それで、いつの間にか嫁のように居着いてしまったその女と、みのきちは、十年間で十人の子どもに恵まれたのじゃ。大勢の子どもに囲まれて幸せな日々を送っていたみのきちは、ある夜、酒を飲みながら、つい口が滑って、あの吹雪の晩に遭った雪女の事をしゃべってしまったのじゃ…… すると恐ろしことに!」
 淳司少年はびくとしてヨネの顔を見た。
 「恐ろしい事に?」
 「嫁が鬼の形相で、みのきちを睨みつけて言ったのじゃ。『誰よその女? まあ、私と会う前の事だから許してあげるけど、今度口にしたらタダじゃおかないわよ!』とな」
 「なにそれ? どこが怖いの?」
 「まあ、男と女はいろいろと難しいんじゃ」
 そう言い、ヨネは立ち上がった。
(了)



 やたら大きなかぶ
 くにさき たすく

 おじいさんは畑にかぶを植えました。
 「大きな大きなかぶになれ。とんでもなく大きなかぶになれ」
 やたらめったら大きなかぶができました。
 うんとこしょ。どっこいしょ。
 しかし、かぶは抜けません。
 おじいさんは、おばあさんを呼んできました。
 「こいつをひっこぬくのをちょいと手伝ってほしいんじゃが」
 うんとこしょ。どっこいしょ。
 やっぱり、かぶは抜けません。
 「こりゃあ抜けんなあ。孫も呼んでこようか」
 「ちょっと待っておじいさん。こんな普通のやり方じゃ抜けないでしょう。私の知り合いに詳しい人がいるから連絡してみます」
 おばあさんは近所にある市民ふれあい植物園の園長を呼んできました。
 「いやあ、こんな大きなかぶは見たことが無い。これを抜きたいということですが、私の手にも負えんですな。しかし非常に価値があるものだと思います。専門家に聞いてみましょう」
 園長は植物科学研究所の所長を呼んできました。
 「これは素晴らしい。しかし、なぜこんな大きく育ってしまったのでしょう。まずその原因について調査すべきですね。不用意に近づくと危険かもしれない。放射能の可能性もある」
 所長は疾病予防管理局の局長を呼んできました。
 「これは大変な異常事態ですね。当局で調査いたします。様々な可能性が考えられるでしょうが、念のためこの畑には誰も立ち入らないように封鎖いたします。今すぐ」
 誰も呼んでいないのにテレビ局の撮影隊がやってきました。
 「いったいこれはどういう事でしょう。のどかな畑に突如として巨大なかぶが生えてきてしまったのです。これは事件です」
 やじうまが集まりはじめました。
 「なんだなんだ? 何の騒ぎだ?」
 疾病予防管理局の調査隊がやってきました。
 「どいてどいて! 関係のない人間は離れて! どんな影響があるかわかりませんよ!」
 環境保護団体がやってきました。
 「これは権力の暴走だ! 無実のかぶをいじめるな! 調査反対! 調査反対!」
 警察の賭博犯罪捜査課がやってきました。
 「大勢でおいちょかぶをやっているという通報があったんですが」
 証券取引委員会がやってきました。
 「不正な株の取り引きが行われているというのはここか?」
 バイク買い取りキングダムがやってきました。
 「とても珍しいスーパーカブが見つかったらしいですねー。バイク買い取りキングダムでは他社より高値で買い取らせてもらいますよー!」
 警察の組織犯罪対策課がやってきました。
 「アストラ・カブというスペイン製の拳銃が大量に見つかったという情報があった。さあ、どいたどいた。場所を開けろ。抵抗するものはしょっぴくぞ」
 国際テロ対策局がやってきました。
 「フリーズ! 銃を置け! 手を頭の後ろで組め! ここは我々が仕切らせてもらう! 爆弾はどこだ! 核はどこにある!」
 「いやあ、本当に立派なかぶだなあ。うちの園に引き取ったら客も増えるだろうなあ」
 「これは商業的ではなく学術的な価値があるものです。きちんと科学的に調査すべきですよ」
 「調査の邪魔です! 関係ない人は下がって!」
 「何なの? 何が起きてるの? 警察を呼んで!」
 「警察は我々だ。賭博場はどこにある? 騒いでいるのは何の団体だ? 片っ端から職質をかけるぞ」
 「反対! 反対! 職質も反対!」
 「ここの責任者は誰だ? 株の取り引きはどこで?」
 「ちょっと待ってー。カブの取り引きはうちとお願いしまーす! バイクはどこですかー? 高く買い取りますよー」
 「我々は警察の組織犯罪対策課だ! お前ら早く銃を下ろせ!」
 「こっちは国際テロ対策局だ! そちらこそ銃を下ろせ! どこだ? 核弾頭はどこにある? 早く探せ!」
 「みなさんご覧いただけますでしょうか! 大勢の人々が大きなかぶを取り巻いています! 現場は大パニックです!」
 町内会の会長がやってきました。
 「これはいったい何の騒ぎです?」

 うんとこしょ。どっこいしょ。
 関係各所の足の引っ張り合いで、まだまだかぶは抜けません。
(了)

|

第34回小説の虎の穴 発表

 第34回小説の虎の穴の最優秀賞は、森江武典さんの「老人と青年」に決まりました。
 結果は、公募ガイド1月号に掲載しています。
 ここでは、佳作9編のうち、データで応募された4編をご紹介します。




 ペンギンデート
 いとう りん

 あの日と同じような服を選んだ。黒いコートに白いマフラー。服装は同じでも、体型はあの頃とは似ても似つかない。すっかり年をとってしまった。
 「五十年後に、ペンギンの前で逢いましょう」
 なんて不確かな、なんて頼りない約束だろう。五十年前、気が遠くなるような約束をした佐伯が来る気配はない。動物園の閉園時間が近づき、冷たい風が通り過ぎた。
 佐伯は、夫の同僚だった。親の勧めで結婚した夫は、無口で思いやりに欠ける人だった。飲み会の後はいつも同僚を連れてきて、酒やつまみを用意させられた。新婚生活は苦痛の方が多く感じた。
 そんな私に、唯一優しく接してくれたのが佐伯だった。佐伯はいつも私を気遣ってくれた。台所に顔を出しては、「いつもすみません。料理を運びましょう」と手伝ってくれた。
 「男が台所に入るものじゃないわ」と言うと、「奥さん古いなあ。これからは女性の時代ですよ」とさわやかに笑った。おそらくこのとき、不覚にも私は恋に落ちたのだと思う。
 佐伯が来るのを心待ちにしている自分に戸惑い、必死に否定してみたけれど想いは募るばかりだった。もちろん誰にも知られてはいけない秘密の想いだ。胸の奥に閉じ込めて決して開けてはいけない。
 そんな日々が半年ほど続いた。佐伯はいつも優しかった。後片付けを手伝ってくれたり、酔いつぶれた夫を布団に運んでくれた。そのあとは、酔い覚ましのコーヒーを飲みながら楽しいおしゃべり。その時間は、私にとって宝物だった。
 しかしそんな輝く時間は、ある日突然消えた。佐伯が東京を離れることになったのだ。
 「九州へ転勤になったそうだ。自分から志願したらしい」
 夫の言葉に、私は動揺した。
 「どうして? 佐伯さん、実家も関東なのに」
 「さあ、東京を離れたい理由があるんだろう」
 何かを含んだような言い方だった。夫は気づいているのか。それならば、佐伯も私の気持ちを知って離れて行くのか。胸が苦しくなり、気づけば「外で会ってほしい」と佐伯に電話をしていた。
 私たちが一度だけデートをしたのは、真冬の動物園だった。ひどく寒い日で、私たちは言葉を探しながら、少し離れて歩いた。
 佐伯は、ペンギンの前で立ち止まった。
 「あなたはまるでペンギンのようですね。黒いコートに白いマフラー。あそこでじっとしているペンギンとそっくりですよ」
 「あらいやだ。私あんなずんぐりじゃないわ」
 私たちは笑いながら、少しだけ寄り添った。
 「僕はこの先誰かと出会い、いつか結婚するでしょう。そしてあなたは、子供を産んで母になり、素敵に年をとっていくでしょう」
 「ええ、そうね」
 「五十年後に逢いませんか」
 唐突に佐伯が言った。
 「五十年後? 私ずいぶんなおばあさんだわ」
 「僕だっておじいさんだ。でも、そのころになれば、もう逢ってもかまわないでしょう」
 穏やかな遠い目をしていた。
 「いい茶飲み友達になれそうね」
 「では、五十年後の今日、ペンギンの前で」
 佐伯はそう言って、軽く手を振った。それが彼との別れだった。冗談みたいな儚い約束を残して、佐伯は駅へと走り去った。
 佐伯が言ったように、私はやがて母になり、思いのほか子煩悩な夫と穏やかに暮らした。平凡だけど幸せな日々に、佐伯のことも思い出さなくなっていた。
 年をとって、子供が巣立ち、夫を看取った。ひとりになると、なぜだか佐伯のことを思い出した。もう恋ではない。ただ懐かしい思い出として、私は佐伯に想いを馳せた。そしてあの頼りない約束を思い出した。
 ペンギンは、どこを見ているのだろう。遠い故郷の夢を見ているのだろうか。寒さをこらえながら思い出に浸っている私は、本当にペンギンみたいだと、ひとりで笑った。
 ふと気配を感じて振り返ると、佐伯が立っていた。「遅くなりました」と微笑む佐伯は、あの頃のままだ。あの時と同じ服装で、同じ顔で、何も変わっていない。
 「ずるいわね。あなただけ若くて」
 「すみません。でも、あなたが幸せそうでよかった。ふくよかになられて、幸せな証拠だ」
 「まあ、いやな人。ますますペンギンみたいって言いたいんでしょう」 
 佐伯は優しく笑った。そして静かに消えた。
 本当は知っていた。佐伯はおじいさんにはならなかったこと。彼は九州に転勤した二年後に病に倒れ、そのまま逝ってしまった。
 「茶飲み友達になれなかったわ」
 閉園を告げる音楽が、北風に乗って聞こえてきた。冷え切った体をさすって、のろのろと歩き出す。明日は夫の墓参りでもしようかと、何となく思った。
(了)




 金曜のバス名主
 髙橋由紀子

 毎週金曜日、朝八時四分の大学病院行きのバスに、木暮義彦は乗りこむ。
 八十二歳の木暮は前立腺肥大を患っており、週に一度、地元の大学病院の泌尿器科に通院しているが、年のわりに血液の検査値もきれいで、他に持病らしい持病もないし、足腰も丈夫だ。金曜日は決まって八時にはバス停に出て、真夏日でも雪の日でもベンチに腰かけることなくバスが来る方向を睨んでいる。
 キンモクセイが香るその日は、ダイヤより四分遅れの八時八分にバスが到着した。木暮は誰よりも先に乗車する。
 「ふん。台風が来ているわけでもあるまいに、四分も遅れてきおって。四分遅いだけで診察順は二十番も違ってくるんだからな」
 木暮は敬老乗車証を機械に通しながら、運転席に向かって大声で嫌味を言った。
 座席は半分ほど埋まっていた。ほとんどが木暮と同じ病院に通う老人たちだった。前方の一人がけの座席には、大学生らしき若者もちらほらと座っている。
 空席があるにもかかわらず、木暮は優先席の脇の手すりにつかまって立っていた。バスが次の停留所に停まる。つむじが地面についてしまいそうなほど腰を曲げた老婆が、杖を突きながら乗りこんできた。重症の関節リウマチで通院している羽黒さんだ。ステップを一段ずつゆっくり上がってくる羽黒さんに、木暮が手を貸し、そのまま優先席に導いた。
 「いつもありがとうねえ」
 「なんのこれしき、おやすい御用」
 羽黒さんといつもの挨拶を交わす。木暮は金曜日の朝の優先席の番人だった。
 その次の停留所では、六十代ぐらいの夫婦連れと小さい子供の手を引く若い母親が乗ってきた。それぞれ後方の二人がけ席に座る。車内の秩序は木暮の理想通りに保たれていた。
 木暮が乗ってから三つ目のバス停で、また老人が多く乗りこんできた。座席が数人分足りなくなった。優先席にはもう二人座れるだけのスペースが余っていたが、木暮は老人たちを前方に誘導する。
 「おい、若造」
 木暮は一人がけ席に座っていた男子大学生に声をかける。彼はイヤホンをしていたので、木暮の呼びかけにすぐには応じなかった。木暮はイヤホンを耳から引っこ抜いた。
 「こちらの年輩の方々に席を譲らんか。どうせ次の停留所で降りるんだろうが」
 その若者は次のバス停のほど近くに建っている有名私立大の学生だった。イヤホンをとられて一瞬たじろぐが、木暮の顔を見てぼそりと「あ、今日って金曜日か」とつぶやき、諦めたように席を立った。同じ大学の学生と思しき他の数人も、そそくさと席を離れる。老人たちは木暮の指示通りに、空いた席に納まった。
 大学近くのバス停に着くと、さっきの学生たちが無言で定期券を提示し、降車していった。彼らの背中に三十がらみの運転士が小さく「すみません」とささやく。木暮が泌尿器科にかかるようになってから、金曜日のこの時間帯に学生が乗車する率はぐっと下がった。
 彼らと入れ替わるべく、乗車口には三人が列をなしていた。この大学前のバス停では、整形外科にかかっている布藤さんと、内科と皮膚科をかけもちする澤田さんの奥さんが乗りこんでくる。木暮はそれを知っている。
 列の先頭に並んでいたのは、茶髪で耳にピアスを開けた若い男だった。知った顔ではない。部外者だ。木暮の本能が危機を告げた。
 案の定、男は木暮を押しのけるようにして、優先席にどかっと腰を下ろした。木暮の後ろには、布藤さんと澤田さんの奥さんが何か言いたげに控えている。
 「おい! 老人を差し置いて優先席に座るとは何事だ!」
 木暮の怒鳴り声がバス中に響きわたる。
 「立て! このご老人がたに席を譲りなさい」
 若い男はにやにやしながら立った。そしておもむろに木暮の手を取ったかと思うと、「どうぞ、おじいちゃん」と、木暮を優先席に座らせようとしてきた。
 「なんだ? 馬鹿にしおって! わしは昔、マラソンの選手だったんじゃ! お前などにいたわられずとも……」
 「どう見ても、あんたが一番じじいだよ」
 若い男が木暮の話をぴしゃりと遮った。後方からは夫婦連れの忍び笑いが聞こえてくる。
 「わしをこんなもうろくしたじいさんばあさんどもと一緒にしてくれるなよ!」
 一瞬、バス内がしんと静まり返った。
 「内心ではずっと私らを馬鹿にしてたのね」
 「あんたがいるから、俺は今までこの席にしか座れなかった」
 火の中で栗が爆ぜるように、老人たちの不満の声があちらこちらから上がった。羽黒さんの声も混じっている。
 「次はバス名主の降車でございます」
 運転士のアナウンスに拍手喝采が起こった。
(了)




 観相
 富田順子

 九月上旬の蒸し暑い夜。俺は将棋仲間で、唯一の友人の通夜の帰り道だった。
 彼とは仕事を引退してから十年以上、毎日のように公園のベンチで駒を戦わせた間柄だった。俺にとって彼との将棋は生活の彩りであり活力の全てだった。彼の死で俺は生きる張り合いを失い、斎場を後にした足取りはぼんやりとしたものだった。
 人影もまばらな駅前に差しかかった時、街灯に照らされた黒マントの中年女性がヒラヒラと手招きをしてきた。俺は自然と吸い寄せられ、女性の前の丸椅子に座った。側には「観相」という看板が置かれていた。
 「あなたもうすぐ死ぬわよ。次の誕生日を迎えるのは難しいわね」
 女性は喪服の俺に向かって静かに言った。
 別に死ぬことは怖くないが、内心どきっとした。女性の言うことが本当なら来月喜寿を迎える前に俺は死ぬことになる。
 「何の冗談だ。印鑑やつぼなら買わないよ。別に長生きしたいと思わん」
 「そんなインチキ商売しません。全てが見えるだけよ」
 女性はうすら笑いを浮かべた。
 「宮城県出身。農家の四男坊として生まれる。集団就職で上京後、靴職人として仕事一筋にまじめに生きてきた。特許の書類関係でお役所と揉めてるわね。だからかしら、人との交流は苦手。ずっと独身で寂しい守銭奴。倹約が正義だと思ってる。引退後はもっぱら将棋三昧で、他になんにも楽しいことを知らない。どう、これで信じるかしら」
 ぐうの音も出ない。汗がすっと引く。女性の言うことは全て当たっていた。
 「わたくし、こういうことやっているの」
 女性はそう言って、舌を噛みそうな長ったらしい肩書の付いた名刺を取り出した。
 「『経済産業省直属 睡眠資産流通推進会 代表』。――なんじゃそりゃ?」
 「要するに、お年寄りが貯め込んだお金を世の中に流通させて経済を潤しましょう、という会で、そこの代表をやっているの。ちゃんと国のお墨付きよ。ねぇ、もったいないと思わない? 三途の川の向こうには一円だって持って行けないのよ」
 「貯めておかないと不安だろ。年金だって少ないのに」
 「だから、わたくしの能力でお年寄りに死期をお知らせするの。そうすれば心おきなくお金をパァーっと使って人生を楽しむことができるでしょ。それが経済活動の貢献につながる。素敵なことだと思いません?」
 女性の言うことはごもっともだ。いつ死ぬか分かれば浪費もできようってものだ。かといって『贅沢は敵』という子供の頃からの教えは心にも体にも染みついている。いまさらそんなこと言われても、人生を楽しむ方法なんてさっぱりわからない。とまどっていると、女性はカバンから紙の束をガサゴソと取り出した。
 「商品を買うより体験型がいいわ。世の中にはいろんな娯楽があるのよ。例えば、豪華客船の旅、キャバクラで豪遊、高級スポーツジムで汗を流す、あるいはメンズエステで身体を磨きあげるのもいいわね」
 他にも落語、芝居のVIP席、カラオケ丸ごと貸し切り等、俺と無縁の世界だった言葉が踊るパンフレットが目の前に次々に並んだ。
 「残りの時間が有意義でありますように」
 生の期限がわかったことはありがたい。俺はパンフレットを抱えて家路に着いた。

 「いったいどういうことだ」
 ひと月前と同じ駅前の街灯の下、俺は怒り心頭で黒マントの女性につかみかかる寸前だった。
 「あんたの言うとおりに俺は浪費しまくったぞ。キャバクラではピンクのドンペリ入れて、ホテルのスイートにも泊まった。メンズエステも連日通った。なのに死なないまま今日の誕生日を迎えたじゃないか。もう金なんかないぞ。どうしてくれる?」
 「ああ、それはね、実際の誕生日と戸籍上の出生日が異なる場合……」
 そう言うと女性はすっと立ち上がり駅の方向へ走り出した。
 「おい、ちょっと待て。逃げ……」
 逃げるのか、と言い終える前に横から暴走車が俺に向かって突っ込んできた。俺は駅前に跳ね飛ばされ、女性の目の前に叩き落ちた。
 そういえば、俺が生まれた時は農繁期で忙しく、産婆が翌日取りあげた近所の子供とまとめて出生届を出した、という話を母親から聞いたことがあった。
 薄れゆく意識の中、俺の耳元で女性はこう言った。
 「戸籍重視なのよ。ごめんなさいね、お役所仕事で」
(了)




 極楽苑
 朝霧おと

 鏡の前で前髪を直した後、一歩下がって全身をチェックする。クルッとターンしてから、もう一度鏡に近づきニッと口角を上げた。
 「よぉし、OKだ」
 テーブルのキーをつかむと、恭平は軽い足取りでドアに向かった。
 「徳川様、おはようございます」フロントの男がにこやかに声をかけた。
 「おはようございます」同じくフロントに立つ若い女がさわやかに微笑んだ。
 「いやあ、おはよう。今日も美人だね」
 恭平はいつもの苦みばしった笑みを浮かべ、彼女に向かって軽く手を上げた。レストランに入り、窓際の席に着き、英字新聞を広げる。足を組み、体を少し斜めにずらすことも忘れない。そうすれば周りの女たちのため息が聞こえてくるのだ。
 朝食が運ばれてくるのを待つ間、恭平は自分に注がれている視線の数をかぞえてみた。あちらのテーブルの四人連れの女性、今入ってきた少し小柄の女性、食事を運ぶ数人のウエイトレス、そして美人のチーフ。チーフである葵にはずっと前から誘いのアクションを起こしているのに、いまだに返事がない。面白くない恭平は、その間に何人もの女性とデートの約束をしたものだが、やはり葵のことはあきらめきれないでいた。
 朝食を終えると、名残り惜しそうな数々の目に見送られ、部屋に戻った。たしか今日は月に一度、担当の編集者がやってくる日だ。恭平は早速、しめ切り間近の小説の執筆にとりかかった。
 静かにノックの音がした。そっとドアを開け顔をのぞかせたのは、なじみの編集者、卓郎だった。
 「先生、しばらくです。どうですか調子は」
 「おう、入って入って。もうちょっとで書きあがるから、そこで待っててよ」
 「はい。まだ時間はありますのでごゆっくりどうぞ。あ、それからこれ差し入れです」
 卓郎は菓子や果物の入った大きな袋を差し出した。
 「しかしここは本当にいいところですよね。ここに入っていただいて私どもも助かります」
 卓郎は窓際へ行き、その広大な敷地を見渡した。
 「うん、集中して書けるから私もありがたいと思ってるんだよ。おまけにホテル代も食費もなにもかもおたくに持ってもらっているからね。なんか悪い気がしちゃってさあ」
 「いえいえ、とんでもございません。こちらこそ感謝感激の極みでございます」
 卓郎は、恭平が気付くといつもそばにおり、何かと手助けをしてくれるとても便利な男だ。少し気の弱いところもあるが思いやりがあり、恭平はそんな卓郎を気に入っていた。たまに彼の代わりに女がやってくることがあるが、これがまたいけ好かない。言葉の端々に棘があり、動きも雑で女らしさのかけらもないヤツだ。この女が顔を見せると、恭平は萎縮してしまい、書けるものも書けなくなってしまうのだった。
 ラストシーンを一気に書き上げようと、恭平はがむしゃらにペンを走らせた。と、その時、キュッと胸が軋んだ。最初小さな痛みだったものが、一気に心臓をわしづかみされたような感覚が襲った。イスから転げ落ちる大きな音、あわてふためく卓郎の声、ドアからなだれ込む大勢の人々と叫び声。恭平の意識はそのまま遠のいてしまった。
 目が覚めると、白い天井と白い壁が目に入った。そこに卓郎の心配そうな顔が重なり、その後ろに中年の女が見えた。どこかで見たような気もするが思い出せない。不機嫌そうな女を横目で見ながら、卓郎が申し訳なさそうに言った。
 「お父さ……いや、先生にはまだまだがんばってもらわなくちゃ」
 「ところで、そちらの女性はどなただったかな?」
 「え? いつも来ている編集の……お忘れですか。えっと、私の妻の清美です」
 女はますます口角を下げ、恭平から目をそらした。
 「申し訳ないが清美さん……」
 恭平は口の片方をキュッとあげると、得意の笑みを浮かべた。そして清美めがけて指ピストルを差し向け、撃つまねをした。
 「私に惚れちゃあいけないよ」
 清美が小さくくちびるを動かした。──このエロじじい。
 そこに中年の看護師がにぎやかに入ってきた。
 「あら、おじいちゃん、気がついたのね。倒れたのが息子さんの面会の日でよかったですね」
 恭平は脈を取る看護師の手をつかみ、なでさすりながら言った。
 「お嬢さん、あんた、まだボケるのは早いよ」
(了)

| | コメント (0)

第31回小説の虎の穴 佳作発表

体育館倉庫で
月鵺

 アタシと颯太は付き合っている。それなのに昨日、美穂と颯太が体育館倉庫でキスをしていたのを見てしまった。颯太の名前入りジャージ姿が涙で滲んだ。
 美穂とアタシは小学校のときからの親友だ。だからこそ許せなかった。美穂と颯太を立ち入り禁止の屋上へと呼び出すメールを打った。
 二人はアタシが何も知らないと思っているだろうから、何の疑いもなく来るだろう。
 アタシを裏切るなんて酷い。どちらとも許せない。屋上の風は冷たいが、アタシの怒りの炎は消えることがなかった。あれこれ考えが逡巡しているうちに、美穂が現れた。
「麻美、誰にも聞かれたくない話って何?」
「美穂……アタシ、昨日……」
 言い出そうとしたところで、立て付けの悪い入り口のドアが再び鳴る。
「あれ? 美穂もいるじゃん」
 颯太。なんて白々しい。この面子で話したいことって言ったら分かってるでしょ!
 二人はきょとんとアタシを見ている。なんて鈍感なの。
「颯太、美穂。もうやめてよ。アタシ昨日、見ちゃったんだからね!」

 放課後、麻美に呼び出された。最近あんまりデートもできなかったからな。屋上なら人目も無いし、存分に好きなことができる。そう思っていたのに期待はずれだ。美穂もいる。
 何時も仲良しなのは分かるが、俺と二人の時間も作ってくれよな。女子の連帯感ってなんか怖ぇな。
「美穂もいるんじゃん」
 拍子抜けした俺は、肩を落として麻美を見る。何か睨まれた? 俺、何かしたっけ?
 麻美が怒りそうなこと。何か記念日忘れてる? もしかして、皆で借りて回し見してるエロDVDが体育館倉庫に隠してあるのがばれた?
 美穂と一緒になって、俺とっちめられるのか? ヤバイ! 無関係だと白を切るしかない! 俺はできるだけ冷静な態度を取った。
 だが、麻美はそんな俺を見透かしたかのように溜息をつく。これはかなりお怒りだ。ちらりと美穂を見ると、呆れられているような顔だった。お前が告げ口したんだな!
「颯太、美穂。もうやめてよ。アタシ昨日、見ちゃったんだからね!」

 麻美に屋上に呼び出された時から、何と無くばれたのだと分かった。
 そう。私は恵子と付き合っている。親友が同性愛者だと知って、きっと困惑したのだろう。だけど、聞かずにはいられず、それでこんな人気のないところに呼び出されたのだ。
麻美の心遣いに感謝して、私は覚悟を決めた。
「麻美、誰にも聞かれたくない話って何?」
「美穂……アタシ、昨日……」
 麻美が言い辛そうにか細い声で話し出そうとした、その時。颯太がやってきた。
 麻美、もしかして先に颯太に相談したの?
 颯太は麻美の彼氏だけど、私たち親友でしょう!? やっぱり女の友情なんて彼氏の前には儚くも崩れ去るのね!
「あれ? 美穂もいるんじゃん」
「颯太」
 麻美が颯太を窘めるように名前を呼ぶと、颯太は黙り込んだが、すぐに麻美がヒステリックに叫んだ。
「美穂。もうやめてよ。アタシ昨日、見ちゃったんだからね!」
 やはり昨日、恵子と一緒に居たところを見られたんだ。
「……やめられるわけ無いじゃない。だって本当に好きなんだもの!」
「そ、そうだぞ。あれは単なる生物的性って奴で……」
「なんですって! 二人して開き直るの!?」
 何故か颯太が加勢してくれたが、麻美は分かってくれない。私は本気で恵子が好きなのに。昨日、置き忘れた颯太のジャージを隠れ蓑にして、体育館倉庫で隠れてキスをした。そうか。颯太がジャージを取りに戻った時に見られたのね。
「ごめん! 謝るから!」
 颯太が両手を合わせて伏し拝む。颯太が麻美に告げ口したのね。酷い!
「「許さない!」」
 私と麻美の声が重なった。
「あのDVDは仲間内で借りたやつなんだ。俺だけの問題じゃない。二人とも頼むから黙ってて! 没収されたらマジでヤバイ……」
「「は?」」
 颯太が何か良からぬものを隠しているようだと、私も麻美も気が付いた。私たちは顔を見合わせると、一目で休戦条約を結ぶ。伊達に長年親友をやっているわけではないのだ。
「じゃ、颯太から話してもらおうかな?」
(了)



或る教授の最期
萬歳淳一

 竹内医師は、K医科大学消化器内科の主任教授だった。三十余年にわたって多くの患者を診察、治療してきたベテランも、半年前に胃癌と診断され、治療の甲斐なく最期を迎えようとしていた。五年前に伴侶に先立たれ、付き添う家族はいなかった。附属病院の特別室には、主治医で医局長の五十嵐、医員の加藤、当直研修医の高田、夜勤の看護師が詰めていた。誰もが今夜が峠だと覚悟していた。

 二月の真夜中は、空調の利いた個室でもガラス越しに冷えた空気が白衣を通す。研修二年目の高田は、肌寒い窓際で眠気を堪えて立っていた。
 高田は、入院から毎日カルテに所見を記録し続けていた。三カ月で体重は二十キロ減少し、手足は筋張り血管が浮き出て、下腹部だけが腹水で異様に膨れていた。頬は痩せこけ、眼球は黄褐色を帯びている。食事は先週から摂取できず、高カロリー輸液で細々と命を繋いでいた。苦しげに胸を上下させて呼吸し、酸素マスクをつけても血中酸素濃度はあまり上がらなかった。もう高田には、時々痰を吸引し、尿量をみて点滴量を調整するほか、できることはなかった。病状回復のために何ひとつできない医者は、何のためにここにいるのだろう。頭が朦朧とする。昨晩から付きっきりで一睡もしていない。死に往く者と違い、生き続けていく者には睡眠と休息が必要だった。意識が混濁しているのは自分の方なのではないのか。立っているのが限界だった。

 主治医の五十嵐は、しきりに腕時計を気にしていた。准教授の佐野が到着するまでは延命させろと厳命を受けていたが、おそらくそれまで保たないだろう。教授の腰巾着のくせに、なぜこんなときに学会に行ったのか。佐野に連絡が取れたときには既に終電の新幹線はなく、タクシーを飛ばして向かっているという。竹内が教授に就任したとき、佐野は反発する重鎮を抑えて医局を支えてきた。当然、次の教授には自分が就くものと思っているに違いない。五十嵐も教授選にでる腹積もりでいた。自分は教授の愛弟子で、これまで医員をまとめ、教授の論文や講演原稿のほとんどを代筆してきた。竹内の正当な後継者として学内の支持を集めて、選挙を有利に進めるためには、佐野の到着前にことが済んだ方が望ましかった。

 医員の加藤はふと、死後に病理解剖が行われるのか確認がとれているのか気になった。同意を得るべき家族はいない。この症例は、加藤の研究テーマ「喫煙による遺伝子変異と胃癌の発生機序」に恰好の研究対象だった。検体が一例増えるのを期待している自分にそら恐ろしいものを感じた。早く解剖学教室に依頼して外来の前に剖検しなければ、病変組織の採取に立ち会うことができない。今日の外来予定を見ようと胸ポケットの手帳を探ったところ、瞳孔の確認に必要なペンライトを持ち合わせていないことに気づいた。今さらナースステーションに取りに戻るのも、死を待ちわびているようで気が引けた。

 新人看護師の井関は、病室の隅で記録板を抱えたまま所在なく立っていた。医師が何人もずっと付きっきりで居るので、今は自分のすることがなかった。死後の処置は、家族のいない場合には看護師だけで行う。自分の勤務時間が終わるまでステルベン(死亡)しないよう願っていた。そうでなかったら、早いうちに死化粧と清拭を終えて、日勤の看護師への引継業務に係らないようにしたいと思った。残業は嫌だった。コンタクトを外した眼鏡姿とノーメイクの夜勤スタイルは、明るいところでは誰にも見られたくなかった。

 病床の竹内はいまだに意識清明だった。もはや死に対する恐怖はなかった。瞼は開かないが、耳は微かに聞こえていた。ヒトの感覚のうち聴覚が最後まで保たれる、とずっと学生に教えてきたが、本当なのか?自分で実証してやろう。心拍モニターの警報音が鳴った。徐脈がでてきたに違いない。胸は苦しくない。痛覚もないようだ。脳血流量も減少してきたのか、音が次第に遠ざかっていく。「心臓マッサージ!」と叫んでいるのは五十嵐の声か?圧迫で肋骨の折れる鈍い音がする。他人事のようだ。「ご臨終です」と言われるのが聴こえるものなのか。ペンライトを点ける音がした。瞳孔反射の確認、眩しくはない。いよいよだ。早く言え、言うんだ。

「聴性脳幹反応あり。現段階で脳死には該当しません。脳死判定は、六時間後に再度行います」
 一同は死人のように首をうな垂れた。
(了)



青い光の中で
家間歳和

 マナブは机上の時計に目をやった。
 二十時三十分。受験勉強の手を休め、窓の外を眺める。そこに見えるのは児童公園だ。防犯に効果があるらしい青い街灯の光が、その景色を寒色に染めている。
 静寂の中、公園前の道を若い女性が歩いて来た。マナブは瞬時に「おや?」と思う。歩き方が少し不自然に感じたからだ。
 彼女が青い光の中心に達した瞬間、「きゃっ」という短い悲鳴。と同時に、彼女に接近する小柄な中年男性が視界に入る。
 通り魔? 強盗? ストーカー?
 マナブが答を導く前に、別方向から長身の男性が現れ、中年にパンチを出す。倒れた中年は即座に立ち上がり、逃げた。残った二人も、ほどなく青い光の中から立ち去る。
 マナブは受験勉強を再開しようとしたが、奇妙な興奮がそれを邪魔した。
   ☆
 サトミはバッグに右手を入れた。
 郊外に住むサトミは、仕事後の帰宅が毎日これ位の時間になる。住宅街に近いこの児童公園付近は、人通りの少ない死角だ。サトミの背中に冷や汗が流れる……駅からここまで足音もなく、背後を歩く中年男性。サトミが右に曲がると右に曲がり、足を速めると足を速めた。徐々に縮まるその距離。
 もしもの事態を考え、サトミはバッグの中でカッターナイフを握る……刹那、
「きゃっ」という悲鳴がこぼれた。中年が、サトミのすぐ後方に接近していたからだ。
 サトミは慌ててカッターナイフを出し、その男に……と、見知らぬ長身の若者が二人の間に割り込んだ。中年が後ろに倒れる。が、すぐに立ち上がる。そして走り去る。
「大丈夫?」と、若者がサトミを見た。青い光がその見知らぬ顔に陰影をつけた。
   ☆
 シゲオは歩く速度を少し増した。
 思いの外、仕事が早く片づいた。久々に起きている娘に会えると思うと、心は弾んだ。
 シゲオの前方に、OL風の女の子が歩いている。帰る方向が同じらしく、歩く速度も似通っていた。時々、こちらに向ける視線。
 まさか、不審者と思われている?
 あらぬ疑いを払拭するため、シゲオは追い抜くことにした。より速度を増し、至近距離に達した児童公園の前。「きゃっ」という悲鳴がシゲオを立ち止まらせた。青い街灯の光が、彼女の持つカッターナイフを照らす。
 やばい、何か言わなければ……と思ったその時、シゲオの目の前に火花が散った。そして尻もちをつく。眼前に立つ長身の男。シゲオは、こいつに殴られたのだと理解した。
 聞く耳を持たぬ形相の男と女。シゲオは大急ぎで青い光の外へ逃走した。
   ☆
 タルトは電柱の陰からその時を待った。
 青い街灯の光がサトミを捕らえる。時間通りだ。児童公園の前にさしかかる。背後には中年男性。彼の名前までは知らない。サトミの影と彼の影が重なる。緊張の瞬間だ。
「きゃっ」というサトミの悲鳴。その右手にはカッターナイフ。驚きで固まる中年。
 今だ!
 タルトは走り、サトミが右手を振り下ろす前に、中年の側頭部へパンチを入れた。そして〈早く逃げろ〉と念ずる。倒れた中年は素早く立ち上がり、背を向けて去った。
「大丈夫?」とタルトが問う。
「ありがとうございます」とサトミは返す。
 言葉を続けたい表情のサトミを残し、タルトはその場を後にした。横目で振り返ると、青い光の中でサトミが頭を下げていた。
   ☆
 プラムはモニターを凝視していた。
 映し出されているのは二十一世紀の某日。時空統制局から改変許可を得た、あの事件の日だ。画面左端の電柱の陰に、二十二世紀から派遣されたタルトが映っている。右端にサトミ女史が歩いてきた。いよいよだ。
 サトミ女史は老年、人類の寿命を飛躍的に延ばす細胞を発見する。ただ、若き頃に犯した、罪なき男性への傷害事件のせいで、研究開始が大幅に遅れたという事実があった。
 プラムはこの遅れがなければ、人類の進化に別の扉があったことを立証し、時空統制局に過去の改変許可を申請したのだ。
 長きに渡る調査の結果、「事件の瞬間のみの操作を許可する」という結論を出した時空統制局。プラムは即座に、タルトを二十一世紀に派遣した──。
「きゃっ」と言うサトミ女史の悲鳴を合図として、タルトが飛び出し、事件の被害者男性を殴った。プラムが算出した、改変のための操作である。事件は回避された。
 青い光の中でタルトは、ミッション成功の笑みをこぼす。プラムは、モニター内のタルトに向けて、親指を立てた。
(了)



ギフト
森江 武典

《会計士 東野の日記》
 私は企業の会計士をしている。こんなご時世なのに、人の弱みにつけこんで儲けに儲けている悪徳企業である。
 この会社は、儲けた金を裏金としてしこたま溜め込んでいる。だから私はその金を奪い、貧しい人に分け与えようと考えた。
 裏金は現金で五億円あった。そのままでは持ち運びに不便ゆえ、私は裏社会のつてを頼り、それを宝石に換えることにした。
 五億円をジェラルミンのケースに詰めると五ケースあった。それをバイクに載せ、私は行きつけの屋外カフェに乗りつけた。バイクをテーブルの脇に置き、私は一人コーヒーを飲んでいる。カフェのテラスは広く、テニスコート半面ほどあった。
 そこに女が現れ、私は数百粒の宝石が入った袋を受け取り、女は五億円をバイクごと持ち去った。取り引き成立である。
 私は逃避行を手伝ってくれている相棒に電話した。彼は興奮してこう言った。
 「やつらが君のところに向かっている。今すぐ証拠を隠して逃げろ」
 私はそばにいたウェイターを呼んだ。日本語を話せないミスラ君という留学生だ。ところが、「ちょっと」と手招いたにも関わらず、彼はこっちには来ようとはせず、あたりをきょろきょろ見ている。
 テラスには私と彼しかいない。なのに、彼は去って行こうとしている。私は慌てて「COME ON」と言って彼を呼び寄せた。
 「この袋、預かってくれ」
 私は身振り手振りで説明した。ミスラ君は理解したようで、「うん」とうなずいた。
 「今は君だけが頼りだ」
 彼はもう一度、力強く「うん、うん」と首を縦に振ってくれた。
 私は何事もなかったように席を離れ、コーヒー代を払うと、カフェを後にした。見知らぬ彼に宝石を預けたのは心許なかったが、今は強くうなずいてくれたミスラ君を信じるしかなかった。

《留学生ミスラ君の述懐》
 日本に来て半年、日本語を話せるようになるには、実際に会話を聞き、自分でも話してみるのが一番と、ぼくはカフェで働くことにした。
 ぼくはいつも胸にICレコーダーを入れておき、家に帰ったあと、その日、お客が話していた会話を聞き直す。それが日課だ。
 東野は常連のお客さんだったが、彼はぼくが日本語を話せないのを知っていたから、話しかけられることはなかった。
 ところが、今日、東野はせっぱ詰まった様子で話しかけてきた。こちらを向いて、あっちへ行けという手振りをしている。手のひらが下を向いていたから、そういう意味だろう。それでその場を立ち去ろうとしたら、「COME ON」と言うので、彼のところに行った。
 東野は巾着のような袋を手渡してきた。どうやら、これをぼくにもらってほしいらしい。しかし、いわれのないギフトは受け取れない。ぼくは身ぶりでNOと言った。
 ところが、どうだろう、東野はほっとしたように微笑んで巾着をぼくに渡し、去っていこうとするではないか。ぼくは彼を呼びとめ、何度も強く首を縦に振って固辞した。ぼくの国ではNOは首を縦に振るのだ。
 にもかかわらず、東野はぼくに巾着を預けていってしまった。ぼくは仕方なくその巾着をもらうことにした。

《ミスラ君の恋人 沙羅の証言》
 ミスラは日本語の勉強に熱心で、毎晩、わたしのところに来て、「これ、なんて意味?」とICレコーダーを再生させていました。
 ある日、東野が電話で話している声が録音されていて、わたしはびっくりしました。東野は裏金の五億円を宝石に換え、海外に高飛びしようと誰かと計画していました。
 東野はミスラのことはあまり気にしていなかったようです。録音された中に、「大丈夫、彼は日本語が分からないから」という会話もありました。油断していたのでしょう。
 貧しい人に分け与える? 確かに最初はそういう計画だったようです。でも、そのうちに欲に目がくらんだようでした。
 だから、わたしはミスラと共謀し、当初の計画どおり、裏金を貧しい人たちに分配してやろうと考え、東野たちに近づいたんです。宝石が買える闇のルートがあると言って。もちろん、宝石は精巧なイミテーションです。
 今、わたしとミスラは、五億円の現金をバイクごとバンに乗せ、空港に向かって走っています。
 さて、このお金はどうしたらいいでしょう。貧しい人に分配すべきでしょうか。でも、現金を見ていると、わたしにはこれが神様からのギフトのように思えてならないのです。
(了)

|

第1回 TO-BE小説工房 掌編小説募集

公募ガイド編集部では、阿刀田高先生を選考委員に迎え、
掌編小説コンテスト「TO-BE小説工房」の連載を開始します。
毎回の課題に挑戦しているうちに自然と小説を書く力が身につくような連載を目指しています。
課題は下記のとおりです。奮ってご応募ください。

第1回課題  浮気×ポケット

●規定枚数 400字詰換算5枚厳守。ワープロ原稿可。
●応募方法 郵送の場合は、生原稿のほか、コピー1部を同封。
作品にはタイトル、氏名のみ併記。別紙に〒住所、氏名(ペンネームの場合は本名も)、
年齢、職業、電話番号を明記し、原稿と一緒にホチキスで右上を綴じる。
コピー原稿には別紙を添えないこと。
A4用紙を使用し、用紙は横使い、文字は縦書き。作品は折らないこと。作品の返却はしません。
●応募条件 作品は未発表オリジナル作品とし、最優秀賞作品の著作権は公募ガイド社に帰属します。
●選考委員 阿刀田高
●発表 第1回・5月号誌上
●賞 最優秀賞各1編=3万円(商品券) 佳作7編=記念品
●応募先 〒160-8549(住所不要)公募ガイド編集部「第1回TO-BE小説工房」係
tora@koubo.co.jp(件名「小説工房」/件名のないものは無効)
●締切 2月5日(必着)

|

新企画投稿募集スタート

月刊公募ガイドでは、2015年4月号のリニューアルに向けて、

2月号(1/9発売)にて、以下の募集を行います。

1. 短歌の時間   (審査員 東直子)
2. TO-BE小説工房(審査員 阿刀田高)
3. キャラクター募集(審査員 大塚いちお) 
4. ジグザグジギーの「突っ込みどころ満載写真館」(審査員 ジグザグジギー)

1~3は、2月号での告知をご覧ください。

4については、下記を参照ください。

ジグザグジギーの「突っ込みどころ満載写真館」面白写真と突っ込みコメント大募集

公募ガイド編集部では、「ジグザグジギーの『突っ込みどころ満載写真館』」の連載を開始するにあたり、 面白写真と突っ込みコメントを大募集します。

募集するのは、
「街角で見かけた笑える情景」
「看板、ちらし、領収書、手紙などの笑える誤記」
などなど。

コメントは、写真に突っ込んでもいいし、ボケてもよし。
被写体になりかわってつぶやいてもよし。
面白ければなんでもOKです。

審査員は、今注目のお笑いタレント、ジグザグジギーさんです。
写真とコメントで、プロのお笑いタレントを大いに笑わせてください。

●応募規定 スマホの写真やデジカメなどデータの場合はメールに添付して応募。形式はJPEG。
郵送する場合はカラープリントで、サイズはサービス判。
メールの場合はメールの本文に、郵送の場合は別紙に、
面白コメント(20~50字)、〒住所、氏名(ペンネーム)、年齢、職業、電話番号、メールアドレスを明記。
作品の返却はしません。
●賞 最優秀賞=5,000円(商品券)、佳作=2,000円(商品券)
●締切 2015年1月5日(必着)
●発表 2015年4月号(3/9発売)誌上、以降毎号の連載誌面で発表
●応募先 〒160-8549(住所不要)突っ込みどころ満載写真館係
       Mail ph@koubo.co.jp

|

 公募ガイド発表BLOG休止のお知らせ

本ブログは、公募ガイド連載「小説の虎の穴」の佳作作品の発表コーナーとして継続してまいりましたが、2014年12月に、公募ガイド社ホームページをリニューアルするにあたり、本ブログは休止致します。
また、「小説の虎の穴」のコーナーも、2015年3月号をもって終了致します。

公募ガイド編集部

|

第33回「小説の虎の穴」佳作発表

第33回「小説の虎の穴」の最優秀賞は、くにさき たすくさんの「できる」に決定し、月刊公募ガイド12月号(11/8発売)に掲載しています。
ここでは、佳作9編のうち、メール(データ)で応募された4編を発表します。
課題は、「視覚を失う話」でした。



 盲目の恋
 いとう りん

 「それで、その玲子さんって美人なの?」
 弟が、相変わらず馬鹿な質問をした。
 「会ったことがないからわからない。もっとも、会っても見えないけど」
 音を立ててせんべいを食べながら、「あ、ごめん。兄貴、視覚障害者だったね」と、籠った声で言った。視覚障害者という言葉を最近覚えたらしい。
 「それで、どうすればいいわけ? その、玲子さんに、俺が会えばいいの?」
 ふうっと息を吐きながら弟が立ち上がる。
 「タバコ、やめたんじゃないのか」
 「あれ? わかっちゃった?」
 「匂いでわかる。灰皿を探しているようだが、ここにはないぞ。我が家は禁煙だ」
 弟は軽く舌打ちをしながら、台所に行って流しにタバコを押し付けたようだ。品がなくて頭も悪いけど、どうやら顔と声は僕に似ているらしい。
 事の始まりは三か月前だ。玲子さんの携帯電話を僕が拾って交番に届けたことがきっかけだ。夜になって玲子さんからお礼の電話があり、明るい声に好感を持った。大き過ぎたテレビの音に気づいた玲子さんが、嫌味のない声で言った。
 「今、テレビ見てますよね。音が聞こえるん
 だけど、副音声で見てません?」
 「あ、うん」
 「私もドラマとか、副音声で見るんです。パソコンで仕事しながら見てるから、説明があると助かるんですよね。まあ、仕事中にテレビ見るなって話しですけどね」
 一瞬、僕と同じなのかと思ったが違った。しばらくドラマの話で盛り上がり、僕は自分の障害を話せなかった。
 それからたびたび玲子さんから電話があり、僕たちは名前で呼び合うほどに仲良くなった。僕は見たこともない物を想像で話し、目が見えないことを隠し続けた。
 「今度会おう。私、あなたに会ってみたい」
 玲子さんに言われて、最初の二度は断った。だけど三度目、玲子さんは店と時間を指定して「来るまで待ってる」と言った。「ヒマワリの造花が付いた白い帽子を被っているわ」と、僕には絶対にわからない目印まで言った。
 それで僕は仕方なく、性格はまるで違うが、どうやら顔と声だけは似ている弟を身代わりにすることにした。
 「オーケー、任せて。俺、そういうの得意」
 相変わらずの軽い声で弟が言った。
 「タバコは吸わないでくれよ。玲子さんはタバコの匂いが嫌いらしい」
 「わかってるよ。心配するなって。上手くやるから」
 弟が僕の肩をポンとたたいて出て行った。これで玲子さんとの縁が切れるかもしれない。それはとても寂しいが、どこかでほっとしている自分がいた。
 数時間後に弟が帰ってきた。
 「兄貴、玲子さん、すごい美人だったよ。女優でいえば…あ、言ってもわからないか」
 「上手くいったのか?」
 「うん。また会う約束したけど、よかった?」
 「じゃあ、これからはおまえの電話番号教えて、ふたりで直接話せばいい」
 「え? 兄貴はそれでいいのかよ」
 「仕方ないだろう」
 正直、玲子さんがこの弟を気に入るはずはないと思っていた。かなりショックだったけど、どのみち諦めるしかない恋だった。
 けたたましい音を立てて、やかんが吠えた。
 「お湯が沸いた。コーヒーでも淹れるよ」
 立ち上がろうとしたら、やかんの音が急に止んだ。弟の気配は目の前にある。
 「誰かいるのか?」思わず耳をすます。
 「私がコーヒー淹れるわ」
 玲子さんの声だった。少し怒っているような尖った声だった。
 「ごめん兄貴。本当は、すぐにばれた」
 弟と一緒に、玲子さんが家に来ていたのか。どうやら僕は、人の気配に気づかないほど動揺していたらしい。
 「すぐに別人だと気づいたわ」
 ガチャンと大きな音を立ててコーヒーが置かれた。やはり怒っている。弟は、「じゃあ、後はお若い二人で」などとおどけたことを言いながら帰ってしまった。
 「私、かなり怒っているわ」
 「うん。声でわかる。…ごめん」
 柔らかい手が、僕の頬にふれた。温かくて優しい手だ。
 「会えてよかった」
 少しだけ、泣いているような声だった。僕は、玲子さんの手を握った。放したくない温もりだと思った。
 「テレビ見ようか。副音声で」
 明るい声で彼女が言う。僕は首を振った。
 「もう少し、こうしていたい」
 何も言わずに手を握り返した玲子さんの笑顔が、一瞬だけ見えた気がした。
(了)

 指先に孤独な光
 髙橋 由紀子

 「じゃ、出席番号順に四人ずつ組になって。って、あー、女子は分けなきゃ駄目だな。でも六人かぁ。ちょっと多いか?」
 まだ若手講師の満永先生が気の抜けたような声を出す。
 ここは、県下に一校しかない整体師の養成学校。昔は私のような視覚障害者しか受験資格がなかったのだけど、今はむしろ晴眼者、つまり普通に目の見える学生のほうが多い。
 男女比も極端で、クラス三十八人のうち、女の子は私と幼馴染みのつぐみを含めて六人だけ。私とつぐみはまったく目が見えない。
 「六人で実習だと全員回りきらないんじゃないでしょうか。私と安里……長谷川さんが組めば、残りの四人でちょうど組が作れますよ」
 つぐみの提案に満永先生も「そうだなぁ……そのほうがお前も長谷川もやりやすいか」と賛同する。他の女の子たちも「せっかく戸部さんが言ってくれてるから」などと言いながらそそくさと四人グループを作り始めた。
 こうして、学内でのマッサージ実習の班割りが決まった。男子のひと班に割り当てられた施術用ベッドの周りに集まるよう、満永先生が呼びかける。十日だったので、出席番号十番の男の子がそこに寝るよう指示された。
 「今から見本やります。よく見とけよー」
 もちろん、私とつぐみには何も見えていない。男の子がくすぐったがって甲高い笑い声をあげたことで、実習室内がドッと笑いに包まれる。私たち二人はクスリともしなかった。
 「いつも思うけど、満永って頭悪いよね。それともあたしたちへの当てつけかな」
 ベッドの周りにできた円の後方で、つぐみが私の耳元にそう囁いた。みんなには聞こえない、私にだけ届く声だった。
 「まあね、若い先生だからまだ配慮が足りないところもあるんじゃない?」
 ちょっと返事がいい加減すぎたかな。そう思ったけど、つぐみが今どんな表情をしているか、私には知りようもない。
 先生のデモンストレーションも終わって、いよいよ実習に入る。各班に二台ずつベッドを割り当てていったら、私たちのところにくるころには数が足りなくなったらしく、先生が古い簡易ベッドを広げていった。錆びた鉄のにおいがした。
 まずつぐみをうつぶせに寝かせ、首から肩を揉む。つぐみの肩はこっていた。
 「安里は三歳までは目、見えてたんだよね。そのころのあたしってどんな顔だった? かわいかった? それともブス?」
 つぐみの急な質問に意表をつかれた私は、思わずマッサージの手を止めてしまう。私とつぐみは、一歳のときにつぐみ一家が私の住む団地に越してきて以来の仲だった。三歳のころにかかったはしかで失明した私は、覚えていないだけでつぐみの顔を見たことはある。けれど、先天性全盲のつぐみは私の顔はおろか、自分の姿さえ目にしたことがない。
 「私だって、物心ついたときには完全に見えてなかったんだから、覚えてるわけないじゃん。それよりつぐみ、肩こりひどいよ」
 つぐみは黙っていた。私は彼女を傷つけたのかもしれない。少しでも光を知っている者と、まったくの暗闇に生まれついた者。その差はほんのわずかなようで、何億光年も遠い。私たちは日常の不便もみんなの憐れみも、同じ分だけ浴びて分かち合ってきたつもりだった。それでもつぐみには足りなかったのだ、きっと。私の目が光を捉えていた三年間分が。
 今度は私がすっかり黙り込んだためか、つぐみのほうが気を遣ったようだった。
 「ごめん、変なこと訊いて。実習、交代しよう。それにしてもさ、ちっとも指導にこないよね、満永。やる気なさすぎ」
 ベッドの縁に座って靴を履いているようで、下のほうから声がする。次は私が施術を受ける番だった。
 ベッドに寝転がると、錆のにおいがいっそう強く鼻の奥をついた。
 つぐみも初めのうちは首と肩を重点的にほぐしてくれていたのだけど、だんだんと手が背中へ、腰へとおりていき、ついにはお尻や太ももをぐいぐいと痛いぐらいに押してきた。
 「つぐみ? 痛いってば。やめて……」
 つぐみの手は私のもっと深い部分に入ってくる。強い刺激と驚き、未知の快感がごちゃ混ぜになって、私は危うく声をあげそうになった。
 「安里ってさ、満永のこと好きでしょ? こんなとこ、あいつに見られたくないでしょ?」
 つぐみの手の動きが一瞬だけ柔らかくなる。
 「満永のどこを好きになったわけ? 見たこともないくせに」
 裏腹に、その言葉は刃物のように鋭い。
 「あたしはこの指先で安里を見ることができる。安里のぜんぶがちゃんと分かる」
 声と指から伝わってくるつぐみの孤独な光が私に二重の痛みを与えた。光を知っていたはずの私のほうがずっと盲目だったなんて。
(了)

 箱の中
 あべせつ

 ガタン!
 体が突き上げられるような衝撃を感じて、目が覚めた。いや、正確に言うと目は覚めたのだが、目が開かない。 
 (え?なんだ?俺はどうしたんだ?)
 まぶたを手でこすろうとするが、指一本動かせない。あわてて起き上がろうとするも金縛りにあったように身体が動かない。
 (おおい! だれかきてくれえ)
 叫ぼうとしたが口も開かず声も出ない。恐ろしくなってパニックになりかけた時、再びガタン!と体が突き上げられた。
 (な、なんだ?)
 耳を澄ますと風を切る音や過ぎ行く街の騒音がフィルタ❘を通したようにくぐもって聞こえてきた。さらには体の下にガタガタというタイヤの振動も感じる。どうやらおれは寝かされたまま車に乗せられているらしい。
 (しかし、この音のこもり具合は車内じゃないな。車のトランクか? それともトラックの荷台の中か? そんなところに放り込まれてるんだとしたら、俺は誘拐でもされたんだろうか?)
 しかし縛られている感じや猿ぐつわを噛まされている感じはしない。どうやら痺れ薬でも盛られて、箱詰めにされているらしい。
 (薬の効果が切れるまでは、身動きが取れないというわけか。なるほどな)
 少し状況が推測できたおかげか、気持ちが落ち着いてくると、頭が忙しく動き始めた。
 (ま、俺も会長職に退いたとはいえ、世間的に名の知れた会社の現社長の実の父親だからな。この老いぼれを誘拐して金持ちの息子から身代金をせしめようなんて考えるやつも中にはいるんだろうて。しかし、待てよ? 俺はいったい、何時さらわれたんだろう?)
 思い返してみるに、昨夜は業界の会合があり、多忙な息子の代わりに高級ホテルで会食した後は、まっすぐ自宅に帰った。
 (そういえば夕べは久々に飲みすぎて、迎えの車のなかで眠っちまったような気がするなあ。そのあとは?ええっと……)
 薬を盛られたのは会食の時なのか、迎えの車の中なのか?それとも自宅に帰ってからなのか?
 (それによって犯人が変わってくるな。
 業界のライバルか、うちの従業員か?
 うぬぬ! まさか家の者ということはあるまいな?)
 その時、車が止まった。前に乗っていた人間が車から降り、バックドアが開けられる気配がした。と同時に、もう一人が玉砂利を踏みながら近づいてくる足音が聞こえてきた。
 『よう遅かったじゃないか。急がないと間に合わなくなるぜ』
 『すみません。なんせ会長が重くて車に乗せるのに手間取りまして』
 『巨漢だからなあ。まったく会長には、いつも泣かされるぜ』
 『あのワンマンさは死んでも治りませんよ』
 (こ、この声は専務の吉崎に、秘書の山本じゃないか!)
 俺は驚いた。忠実だと思っていた、かつての俺の部下たちの声だったからだ。
 (寝てると思って散々悪口を言ってやがる)
 それから、さらに何人かの者が呼ばれ、俺は箱詰めのまま、かつがれて行った。
 (いったい何人が共謀してるんだ?)
 『社長、会長をお連れしました』
 『うむ。とりあえず、その辺に置いて、後はプロの人に任せといてくれ。とにかく俺は今、忙しいんだ』と息子の声がした。
 (なっ、何おう! この俺様をその辺に置いとけとは、どういう言い草だ? ぼんくら息子め! お前が社長になれたのは、いったい誰のお陰だと思ってるんだ。だいたいお前は……。あっいやいや、それどころじゃないな。
 息子が首謀者だというのは、どういうことなんだ? それにプロとは何のことだろう?)
 考えれば考えるほど、わからない。とにかく息子がかんでいるなら殺されることはあるまいと安堵した。
 皆は俺をそこに放っちらかしたまま、部屋を出て行ったようで、遠くで大勢の人が何やら大声で話し合いながら慌しく行き来する音だけが聞こえてくる。
 その時、部屋の中に誰かが入ってきて、俺の枕元に座った。
 『あなた』
 (おお、この優しい声は老妻の民子だ。なぜ民子までもが?)
 その時、シュッとマッチを擦る音がして、少しすると線香の匂いが漂ってきた。
 暖かい手が俺の手を取り、民子の頬にあてがわれた。民子の頬を伝う涙が、俺の指先を濡らしていく。
 (そうか。俺は死んだのか)
 そう合点がいった瞬間、何も見えなかった両目に金色の蓮の花の浮かぶ池が見えてきた。
(了)

 朝食
 ウスダ ヨウコ

 僕は、闇の世界の住人だ。
 「おはよう、具合はどう?」
 「問題ない」
 いつものやり取りで、時間の経過を知る。
 明けない夜はない、なんて、誰がいった言葉だったか。明けない夜はある。そんな世界に住む人間は存在する。
 「着替えてご飯ね。着替え、一人で大丈夫?」
 「うん」
 「じゃあ、ここに置くわね」
 手で洋服の場所を伝え、姉の気配は遠ざかる。扉が閉まり、スリッパの音がして、おそらくリビングに入った。静かになった部屋には、鳥の鳴き声が迷い込む。道路で自転車がブレーキをかけた。車が通った。おそらく携帯で話しながら出勤する人が通った。
 それらの音で日常を感じながら、僕は手探りで服を着替える。一度落とせば、探し出すのは面倒になるので、慎重に。脱いだ服も、記憶のままに、イメージどおりを目指してたたみ、枕元に置く。
 手探りで体中を確認して、大丈夫と確信してから扉へと向かう。長年住んだ家だ、全ての配置は知り尽くしている。そう思っていても、思いがけない場所に、ささいな物が落ちていたりするだけで、それはトラップになることを知った。
 僕は視力を失った。
 つい最近のことだ。
  
 「達也」
 リビングにいた姉が声を掛けながら近寄って、いつもの席に僕を座らせた。
 「ん、ちゃんと着替えられるようになったね。あんた偉いわ」
 「偉いも何も、やるしかないから」
 「うん。ありがとう」
 「自分のためだから、当たり前」
 姉は黙り込んだ。どうやら料理にとりかかったようで、まな板で何かをカットする音がリズムよく響く。
 僕は頬杖をついて息を漏らす。
 しばらく、目が見えないことで食事の味も分からなくなっていた。それがお腹がすいたと感じるようになったのだから、ショックからは立ち直った、といえるのだろう。いいにおいがしてきて、口の中につばがたまる。
 「おまちどう!」
 湯気を感じる。ご飯ものと、汁ものと。メニューは変われど、構成は一緒だ。置かれる場所も、使われる椀も、全部一緒。おかげで手探りしながら、自力で食事ができる。
 汁ものは、本当は熱いくらいが好きなんだけど、この身になってから、ちょっとした手元の狂いで大やけど、などという事態を避けるために、さましたものが出てくるのが、ちょっと不満だ。
 でも、姉の料理は、基本おいしい。
 「いただきます」
 「うん。ありがとう」
 姉はやたらと「ありがとう」を連発するようになった。目が見えなくなった僕の面倒をみなくちゃならなくなって、これからどうなるか分からない状態で、どんな表情をしているのだろう。
 声で分かればいい。
 そう思って注意深く聞いているが、なぜか少しも表情が思い浮かばなかった。見えていた時、姉の顔をじっと見たことなんて、多分なかった。だから、分からないのかもしれない。
 「姉さん、今日はどんな予定?」
 「いつもどおりよ。留守番、よろしくね?」
 「うん」
 「ありがとう」
 「僕も、ありがとう」
 姉が黙り込んだ。何も見えない。
 「姉さん、泣かないで」
 「馬鹿ね、別に泣いてないわよ」
 そうなのか。
 姉は本当に泣いてなんかなくて、笑っているのか。ちゃんとご飯を食べて、食事をおいしいと感じているのか。
 知る術はないのか。
 「姉さん、あの……」
 何か、感じ取る術はないのか。
 手に触れた椀の暖かさ。見えなくても食べやすいように、味を少しも損なうことなく、おいしく作られた料理。
 姉の心。
 「これ、おかわり」
 「はい。気持ち良く食べてくれると、本当に嬉しいなあ」
 優しく、追加の椀を手渡される。少しだけ柔らかな手が触れて、人の存在を感じた。
 「だって、おいしいから」
 「ありがとう」
 明けない夜はある。
 それでも僕は、朝を迎えることができる。
 朝の光を、姉がくれるから。
(了)

| | コメント (0)

第32回「小説の虎の穴」佳作発表

第32回「小説の虎の穴」の最優秀賞は、鶴田千草さんの「少年よ、大志を抱け」に決定し、月刊公募ガイド11月号(10/9発売)に掲載しています。
ここでは、佳作9編のうち、メール(データ)で応募された5編を発表します。
課題は、「タイトルが格言・名言・箴言」でした。



 天上天下唯我独尊
 下平 出穂

 天上天下唯我独尊……我は世界でもっともすぐれた者であるという意味。釈迦は誕生するとすぐに、四方に七歩歩み、右手で天を指し、左手で地を指して唱えたといわれる詩句。

 「さあ! 二〇四〇年埼玉オリンピックもいよいよ佳境に入りました! ここ、さいたま新国立競技場では、前回の大会よりオリンピックの正式種目となりました『天上天下唯我独尊』の、日本対アメリカの決勝戦が行われようとしています!」
 「会場はすごい熱気ですねー」
 「東に向かって七歩進み、空を指して『天上天下唯我独尊!』と宣言すれば勝ちという単純なルールのこのゲーム、元々は日本の小学校の先生が、方位磁石に頼らず太陽の位置や植物の生え方などから東を探す方法を教えるために考案したものだそうです」
 「子どもには楽しく遊びながら体で覚えてもらうのが一番ですからねー」
 「このゲームはルールの一部を変更して、正式なスポーツとして世界中で愛されるようになりました。皆さんもご存知の通り、オリンピックで正式種目として採用されるためには最低でも七十五ヶ国、四大陸で広く行われているスポーツでないといけません」
 「たくさんの国で愛されているんですねー」
 「なお『天上天下唯我独尊』は正確には、てんじょうてん『げ』ゆいがどくそんと読みますが、この『てんげ』というのが国によっては発音しづらいのと、ある国の言葉で卑猥な言語に当たるという理由から、昨年より国際大会では、てんじょうてん『が』ゆいがどくそんと呼称するように統一されました」
 「すばらしい心遣いですねー」
 「さらに先ほども申しました通り、このゲームは本来ならば太陽の位置から正確な方角を割り出し、真東に移動しないとポイントにならないのですが、国が変われば太陽の高さも異なるため、国際大会ではフィールド上にあらかじめラインが引かれており、どちらが東か誰でも分かるようになっています」
 「太陽なんだったんでしょうねー」
 「試合開始までまだ少し時間があるようなので、ここでゲームのルールを簡単に説明しましょう。試合は一チーム七人で行われます。ポジションごとに役割が異なっていて、東に向かって七歩進む『ウォーカー』と、それを守る『ブロッカー』、そして相手チームを攻撃して妨害する『アタッカー』とに分かれています。相手チームの妨害をうまくかわして
 見事、東に七歩進んだ『ウォーカー』は」
 「どうなるんですか?」
 「はい。『シャカー』と呼ばれます」
 「うまい落ちがつきましたねー」
 「この三つのポジションにそれぞれ何人ずつ配置するかはチームの自由です。また七人全員男子でも女子でも構いませんし、男女混合でも構いません。以前は『一歩』が何メートル以上と細かく決まっていたのですが、人によって体格も歩幅も異なるという苦情が出たため、審判が『一歩』と認めれば一歩になるというようにルールが改正されました」
 「男女平等、すべての人種に公平なルールですねー」
 「さあ、間もなく試合開始です。まずは、アメリカチームの入場です。おおっと? これは! 会場がどよめきます。なんと七人全員が赤いゼッケンをつけています!」
 「赤いゼッケンということは?」
 「つまり七人全員が『ウォーカー』ということです。これは前代未聞です。これでは攻撃も防御もできない代わりに、七人が一歩ずつ歩けば、それだけで東に向かって七歩進んだことになります。なんという奇策だ!」
 「いいんですか? それで」
 「ルール上はなんの問題もありません」
 「それはルールで禁止した方が良いのでは」
 「おそらく、次の大会から禁止事項になるでしょう。誰かが一言でも異議申し立てをすれば、すぐにルールが改変されるのがこの『天上天下唯我独尊』の良いところですから」
 「柔軟な対応がすばらしいですねー」
 「これに対して日本チームは、おっと! なんとすばらしい! 日本、アメリカのこの作戦を完全に読んでいました! 日本は七人中六人を『アタッカー』にしてアメリカの進行を防ぎつつ、残りの一人で一気に七歩進む計画のようだ! おや? ここでアメリカの監督が出てきて審判団になにやら抗議しています。どうやら自分のチームのポジションの変更を要求しているようです。本来なら一度決めたポジションは変更してはいけないのですが、おっと、今回は認められたようです」
 「いいんですか? それは」
 「まあ、どんな結果になろうとどちらが勝とうと、最終的には負けた方が勝った方に抗議して、結局どちらのチームにも金メダルが贈られるのがこのゲームの常ですからね」
 「参加して、自分の主張を押し通せば誰でも金メダルがもらえる。まさに『天上天下唯我独尊』ですねー」
 「ええ。これほど平和的でどこからも文句の出ないスポーツは他にないでしょうね」
 (了) 



 箴言
 吉原 すみこ 

 箴言……戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言。

 ある島にパコパコ王国という国がありました。その国のメチャ大王は大きなおなかの元気な王様でした。
 メチャ大王はミサイル弾をよその国から買うのが大好きでした。遊園地で遊ぶのも大好きで他国から買ってきては庭に組み立てて、自分やお后や家来と遊んでいました。 
 夜には遊園地で花火もあげて楽しみます。
 「きれいだな~」
 夜遅くまで遊んだ大王は翌日の朝は、いつもよりもっと朝寝坊でした。
 「ふあ~」
 おおきなあくびをしながら、お城のベランダから、買ったばかりの大きな望遠鏡であたりを見回しました。ぐるりと見ていると、隣のポポン王国のお城が見えます。
 「ポポンのポンだな。あいつ、何をしてるんだ」
 ポポン王国は緑豊かで温泉も豊富。果物や魚もふんだんにとれます。ポン王様はベランダで、大理石の円形のお風呂に入っていました。お付きの美しい女官が大きなヤシの葉のうちわで、ゆさゆさと王様を扇いでいます。テーブルにはバナナに、みかん、西瓜にメロン、他にも色々並んでいます。
 「あいつ、なんか楽しそうだな」
 望遠鏡をのぞきながら、大王は悔しそうに言います。大王は自分以外の人が楽しそうにしていると、つまらなくなります。自分が一番楽しそうにしていないと、嫌になります。
 なぜって、大王は王様ですから。それも大王ですから。自分で大王と言い始めました。
 さて、大王はあの素敵なうちわと風呂が欲しくなりました。
 「扇いでいた女官も綺麗でよかったな」
 にやにやしながら、言いました。
 「僕のお妃も綺麗だけど、うちわは扇がせられないからな」
 う~んと、考えて大王はポンと手を打ちました。
 「そうだ。盗っちゃえばいい。あの国を僕の物にしよう。そうすればいいんだ」
 もう、欲しいとなったら止まりません。
 「どうしようかなあ。攻めていけばいいのだなあ。この間買ったミサイル使っちゃおうかなあ」
 ちょっとだけ考えました。いつも、わがままを言うと諌める、亡き父王の弟で総理大臣のコラッタの顔が頭に浮かびました。コラッタに言えば叱られる。
 「そうだ!コラッタを処刑しちゃえばいいや。そうしたら、僕の自由だ!」
 王様ったら、買ったばかりのミサイルを使ってみたくて仕方ありません。メチャ大王の無茶を叱る家来は王様の命令で簡単に処刑されました。メチャ大王はおしゃべりです。難しいことばも沢山知っていました。家来もわからないような軍事用語やロケットの性能を言うものですから、家来たちは
 「なんだかわからないが、すごく難しそうで賢そうな話をしているから、王様のおっしゃる通りにします」
 と皆、かしこまって言うのでした。
 大王はズドンとミサイルを三発ポポン王国に向かって発射させました。ミサイルはポポン王国まで届かず海に落ちました。望遠鏡で発射の様子を見ていた大王は国民にニュースで知らせるように家来に言いました。
 「見ろ。我が国のミサイルはこんなに素晴らしい成果を上げて敵国を脅かしたぞ。国民に我が国はさらに領土を拡張しつつあると、伝えるのだ」
 家来は走り回ります。さらに次のミサイルも用意します。一方、自分の領海にミサイルを撃ち込まれたポポン王国のポン王様は大きなコップになみなみと入ったココナツジュースをストローで飲んでいました。ポポン王国の家来たちが恐怖で右往左往するなか、王様はジュースを飲んでアニメを見ていました。
 「王様、大変です。パコパコ王国が我が国に攻め込もうとしています」
 「うん」
 「王様、何かご指示を。攻めますか、守るためにどうしますか」
 「うん」
 「何か言ってください」
 家来はもう、泣きそうでした。すると、衛兵が飛び込んできました。
 「王様。わが軍は勝利しました。パコパコのミサイルが大量の破壊兵器を積んで発射しましたが、自国に落ちて王宮も王都も破壊されました」
 ポン王様は無駄に兵を死なせず国を勝利に導いた王様として崇められました。ちょっと凡庸ですが、鷹揚で国民に愛された王様を褒めるときに人々はこの言葉をよく用います。
 箴言 十七章二十八節
 愚か者でも黙っていれば知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。
 (了)



 パンさえあれば、たいていの悲しみは耐えられる
 小泉 由貴

 パンさえあればたいていの悲しみは耐えられる……セルバンテスが、『ドン・キホーテ』の中で書いた名言。

 「お前って重くてウザいんだよ」
 彼は吐き捨てるように、そう言った。
 「いかにも『私って尽くしてます』みたいな顔しやがって。これ以上付き合いきれねえよ」
 運ばれて来たばかりのコーヒーを、彼はすぐに飲み干した。この場にいる理由を消し去るかのように。私が何も言えずに黙っていると、彼はテーブルに五百円玉を置いた。
 「それじゃ、俺行くから」
 素っ気なく言うと、彼は席を立った。まっすぐに自動ドアへ向かい、店を後にする。その間、一度も私を振り返ることはなかった。後に残されたのは空のカップ、手つかずのコーヒー、そして私。ざわめく店内で、席に一人きりなのは私だけ。
 重くてウザいって、何なのよ。湯気が薄くなっていくコーヒーを眺めながら、彼と過ごした日々を思い出した。
 煙草を吸う女は嫌いだって言うから、禁煙を決心した。いつでも連絡を取れるようにしろって言うから、友達と遊びに行くのを止めた。デブは女じゃないって言うから、ダイエットを始めた。彼に好かれたくて、愛されたくて、必死で違う自分になろうとした。それなのに、ウザいって。私の何がいけなかったの。自然と涙が出てきた。
 ふと、視線を感じて顔を上げる。レジカウンターから、店員が心配げに私を見ていた。いつ来てもシフトに入っている、ちょっとかっこいい店員さん。涙を見られたくなくて、さりげなく顔をそむける。その時、テーブルの端に置かれたメニューが目に入った。
 『大人気! 当店自慢のホットケーキ!』
 このホットケーキ、一度は食べてみたかった。でも太るのが怖くて、彼に嫌われるのが怖くて、いつも我慢していた。たまに彼が注文すると、生唾を飲み込んで必死に耐えた。
 二枚重ねの生地の上から、たっぷりかけられたメイプルシロップ。むらのないきれいな狐色。メニューから目が離せない。ホットケーキの写真は、誘うようにささやいてくる。
 『おいしいよ。ぜひ君に食べてほしいな』
 「すみません。ホットケーキお願いします」
 思わず店員を呼んでいた。店員は驚いたようだったが、笑顔でオーダーを取ってくれた。
 そうよ、もう遠慮することはないじゃない。ダイエットする理由も、彼に好かれようとする必要もない。食べたいものを食べて何が悪いの。焼き上がりまでの二十分を、そわそわしながら待った。
 「お待たせしました。ホットケーキです」
 店員はホットケーキを置くと、彼のカップを片付けた。テーブルの上には私の冷めたコーヒー、そして念願のホットケーキ!
 分厚い二枚のホットケーキの上に、追加でバニラアイスを乗せてもらった。ホットケーキは熱々で、アイスが溶けてきている。さらにその上から、メイプルシロップをふんだんに回しかけた。シロップはホットケーキに染み込み、皿の底に浅い池を作る。自然と唾液が出てきて、いったんコーヒーを飲んだ。
 ナイフとフォークを手に取り、早速一口頬張る。まずは甘ったるいシロップの味が広がる。しっとりした口当たりに、ふんわりと鼻に抜ける香ばしさ。ああ、おいしい。やっと食べられた、憧れのホットケーキ。
 次はアイスと一緒に一口。アイスの冷たさとホットケーキの温かさが、口の中で混ざる。さっぱりとした甘さ。少し歯にしみたけれど、すぐに気にならなくなった。おいしい。本当においしい。どうしてこんなにおいしいの。
 今、すっごく幸せ。
 また涙がこみ上げてきた。私って変。たった今彼氏と別れたばかりで悲しいはずなのに、おいしくて幸せだなんて。だけど、失恋なんてこのホットケーキの前では、ほんの小さな出来事のように思わされてしまう。
 涙と一緒に鼻水が出る。うまく食べられない。涙を拭いては食べ、食べては泣き、しゃくりあげながら夢中でホットケーキを食べた。傍から見ればおかしな人に見えるだろうけど、かまわない。残ったシロップまで、すべてきれいに平らげた。食べ終えた後の皿にはかけらも残らず、とても清々しい。次は、一緒にホットケーキを食べてくれる人を見つけよう。そう決心して、また涙を拭いた。
 「ホットケーキ、おいしかったですか」
 会計の時に、店員に話しかけられた。何度も店で会っているけれど、話すのは初めてだ。
 「はい。とってもおいしかったです」
 「良かった。いつも我慢していたみたいだから、ぜひ食べてほしかったんです」
 嘘みたい。来るたび物欲しそうにメニュー見てたの、気づかれていたんだ。恥ずかしさでうつむくと、店員は頭をかいた。
 「すみません、余計なこと言いましたね」
 「いえ、ちょっと驚いだだけですから」
 「良かったら、また来てくださいね」
 人懐っこいその笑顔を見たら、どきどきして顔が熱くなった。
 (了)



 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
 卯月イツカ

 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや……史記の中に出てくる言葉。小さな鳥には大きな鳥の志すところは理解できないという意味で、転じて、小人物には大人物の考えや志がわからないということ。

 電車が駅に着き、何人かが乗り込んできた。吊革につかまりながら、ぼんやり車窓を眺めていた大学生の横山は、隣に人が来たことに気づいた。ちらりと横目で見て思わずのけぞる。頭髪が薄く、眼鏡をかけた五十代くらいの男が、何故かスカートを履いて平然と立っていたからである。
 好奇心旺盛で物怖じしない横山は、スカートを履いた男性に声をかけずにはいられなかった。
 「あの、なんでスカート履いてるんすか」
 いきなり見知らぬ男にそんなことを尋ねられても、スカート男は動じなかった。周りの乗客が耳をそばだてる気配があった。スカート男はゆっくり横山に顔を向け、なんでもないことのように言った。
 「ジェンダーに縛られるのはやめたんだ。これはレジスタンスだよ」
 横山は単純な男であった。ジェンダーだのレジスタンスだの、そういう横文字にも弱かった。彼は目を輝かせ、「すげぇ」と呟いた。
 「ちょっと意味わかんねぇっす」
 「男らしさとか、女らしさにとらわれることへの、抵抗ってやつだ」
 スカート男は、静かだがよく響く、耳触りのいい声で答えた。その言葉には妙な説得力があった。
 次の日、さっそく横山はスカートを大学に履いていった。皆奇異な目で見たが、横山がおかしいのは今に始まったことではない。
 類は友を呼ぶ、というが、横山の友人も大体彼と似たり寄ったりだった。横山は昨日の出来事を友人たちに話して聞かせた。折も折、世間ではある国会議員が「女は女らしくしろ」という不用意な発言をしたことで糾弾され、大いに議論を巻き起こしていた。横山の友人は、スカート男の「高尚な理念」にならい、自身もまたスカートを履き、化粧を施し、それぞれが「性にとらわれない」ことを試みた。その姿はネット上にアップされ、拡散され、徐々に世間の注目を集めた。
 まず「意識の高い」著名人がその運動に賛同した。マスコミがそれを取り上げ、商機と見たファッション業界や美容業界が、ジェンダーフリー商品のCMをばんばん打つようになった。人気を得たい政治家が、似合わぬ長髪・スカート姿で「性からの解放」を訴えた。そして、人々は熱狂的にそれらを支持した。ただ単純に、目に見える形となった「ジェンダーフリー」が分かりやすかったからである。
 「性にとらわれない」という点で、女性の側からのアプローチもあってしかるべきだったが、女性はすでにファッション面で「ボーイッシュ」だの「メンズライク」だのいうものを取り入れ済みだった。いくら「性にとらわれない」といっても、彼女たちの美意識として、化粧を放棄することやムダ毛を放置するなどは考えられないことであった。また、無理に言葉遣いを荒々しくするのも、コミュニケーションにおいて不利にしかなり得ない。従って、彼女たちに大きな変化は見られなかった。
 世間で男女のファッションに大きな違いが見られなくなったころ、大学構内で横山は友人に呼び止められた。
 「よぉ。最近、全然スカート履いてないのな。レジスタンスはやめたのか?」
 横山は、自分のジーンズに目をやると、鼻をフン、と鳴らし、答えた。
 「俺、彼女と別れたんだよ」
 「へぇ?」
 「最初は、『スカート似合うよね!』とかいってたくせにさ。デートのときに俺がスカート履いていくと、ちょっと機嫌悪くなんだよ。だから、なるべく履かないでいたんだけど、夏とかあちーだろ? スカートの方が涼しいし、たまにだからいっか、って、履いたんだよな。それが、彼女のファッションと丸かぶりで。俺、女があんなにキレるの初めて見たわ。『男のくせにそんなかっこしてんじゃねーよ!』ってさ。いやいや、性にとらわれないってコンセプトでしょ、っていったら『そんな汚ねー足して、そんな青い髭剃り跡さらしてるやつに、可愛いかっこする資格はねーんだよ!』って言われたわ。マジ女こわいわ。ファッションがかぶることは女にとって最大のタブーとかなんとかわめきだすし、知らねーっての、そんなの」
 このような事例はあちこちで見られた。そのため、男たちはいつしかスカートを履くことをやめてしまった。大体、自分はそんなにもスカートを履きたかったのだろうか? そんな疑問すら抱くのだった。
 ジェンダーフリーファッションの流行が終わっても、スカート男はがっかりなどしなかった。彼はジェンダーのみならず、世間にも縛られたくはなかったからだ。
 今日も彼はスカートを履く。たとえば街角でも。スーパーの買い物のときにも。世界の誰も彼を見ていなくても、だ。
 (了)



 血は水より
 森江 武典

 血は水よりも(濃い)……血縁者は他人より親密である、似ているということ。

 十月、父が墓参りに行こうと言い出した。
 「この前、テレビで言ってたんだ。先祖の供養が大事だって」
 その番組なら僕も観た。人生相談をする番組で、ある宗教家の女性は、娘が非行に走った母親に向かい、先祖の供養が足らないからだと力説していた。
 僕は父の顔をまじまじと見た。
 「そんな目で見るなよ。いや、ばかばかしいとは思ったよ。でも、だめもとというか、それにお彼岸に墓参りに行ってないし」
 墓は郊外の霊園にある。うちからは一時間ほどの距離だ。
 「別にかまわないけど」
 気乗りはしなかったが、断る理由もまたなかった。
               ※                 ※
 父が墓参りに行こうと言い出す三日前の夜、担任の先生がお見舞いに来た。お見舞いと言っても病気でも怪我でもない。三ヶ月前、喧嘩した級友の巻き添えを食って、教室の壁に頭をぶつけたにすぎない。
 それから三ヶ月、僕は学校に行ってない。なんとなく億劫になったからだ。
 父は、突然の家庭訪問に恐縮していた。
 「三ヶ月もですか。知りませんでした。二人暮らしで、私は朝早く、夜は遅いものですから、登校しているのだとばかり……」
 優しい父に迷惑をかけてしまい、なんだか悪い気がした。
 「いえ、決してお父さまが悪いというわけではなく。いえ、息子さんがいじめられていたってことは決して……」
 それから父と先生は一時間ほど話し合いをした。僕は問題を起こして申しわけない気持ちだったが、でも、はい、明日から学校に行きます、とはどうしても言えなかった。
               ※                 ※
 霊園の入り口で花と線香を買い、手桶を持って祖父の墓に向かう。十年前にできたこの霊園は、まるで近代的な公園のようだ。
 突然、父が思い出話を始めた。
 「パパも中学三年生のときの春、半年ぐらい不登校のときがあってな」
 え? 前を歩く父を見上げた。
 「どうして? パパの時代にはいじめとかなかったでしょ?」
 「あったよ」父の背中が揺れた。笑っているらしい。「でも、パパが学校に行かなくなったのは、いじめのせいじゃない」
 「じゃ、なんで?」
 「自分でもよく分からなかったなあ。まわりの人は五月病だって言ってたけど、だとしたら、ずいぶんと長い五月もあったもんだと思ってたよ」
 また、父の背中が揺れた。
 ほどなく、祖父の墓に着いた。近くに住む祖母がお彼岸のときに手向けたのだろう、菊の花がしおれていた。それを新しいものにかえ、墓石を水で洗い、線香を立てる。
 「父さんが亡くなったとき、遺品の中に日記があったんだ」
 父さんというのは、パパの父さん、つまり、僕の祖父だ。父は続けた。
 「戦争中に書いていたものらしくてね」
 「おじいちゃん、戦争に行ったの?」
 「兵隊としては行ってないけど、土木工事に駆りだされていたらしい。徴用ってやつだ」
 父はなんの話をしているのか、何が言いたいのか、昔の若者は休んだりする暇はなかったとでも言いたいのだろうか。
 「それで、その日記を見たら、戦争なんて嫌だ、殺したくないし、殺されたくもない。殴りたくない、殴られたくない、誰かが殴られるのを見るのも嫌だとびっしり書いてあった。戦時中はヒステリー状態だ。何かっていうと殴られる。ひどい時代だったんだな」
 父は墓に向かって手を合わせた。一緒に手を合わせた僕の横で、パパは話し続ける。
 「あのしっかりした父さんにこんな一面があったのかと意外だったけど、そのとき突然、パパが中三のときに担任の先生に言われた言葉がよみがえってきたんだ」
 「なんて?」
 「今日から受験戦争に突入するって。それを聞いて、情けない話だけど、パパはもうなんだか嫌になってしまって。それで不登校さ」
 パパは戦争という言葉に過剰反応した。僕と同じだ。僕のクラスは荒れていて、まるで戦争状態だった。いじめられていなくても、誰かが争っているのを見ると気が塞いだ。戦争と名のつくものがあれば、本能的に逃げてしまう。そういう血の情報が祖父から父へ、そして僕へと伝わっているに違いない。それほど、祖父が受けた心の傷は大きかった。
 「でも、父さんも辛抱できたし、パパも乗り越えられた。だから、おまえも大丈夫だよ」
 パパは自分に言い聞かせるように言い、急に噴き出した。
 「やっぱり先祖は供養しないと」
 (了)

| | コメント (0)

第30回「小説の虎の穴」佳作発表

第30回「小説の虎の穴」の最優秀賞は、神田あいさんの「たまごの夢」に決定し、月刊公募ガイド9月号(8/9発売)に掲載しています。
ここでは、佳作9編を発表します。
課題は、「吾輩は〇〇である(人間以外のものが主人公の小説)」でした。



 本当の気持ち
 ナックル羊

 壁掛け時計と気鋭の時を刻む音だけが響く古本屋の店内に、スキンヘッドの強面店主とお客の少年が一人居る。
 少年は3ヵ月前から店にやってきては、決まって一冊の動物図鑑を食い入る様に見ていた。
 毎日の様に店に来ていた少年がパタリと来なくなって7年の月日が流れた時、動物図鑑に漠然とした思いが込み上がってきた。
 〝あの子はどうして来なくなったんだろう?〟
 「ねぇ、誰かあの子を知らない?」
 動物図鑑の声に他の本達は反応せず、強面店主にも聞こえていなかった。
 動物図鑑は大きな声で言った。
 「ねぇ! 僕の声が聞こえないの!!」
 すると、2メートルある本棚の中段に置かれている動物図鑑の2段上から声がした。
 「ちょっと静かにしてくれない!」
 怒られた事よりも、反応があった事が動物図鑑には何より嬉しかった。
 「僕の声が聞こえるんだね! 僕は動物図鑑なんだけど君は?」
 動物図鑑の上の段に置かれている本は、一つ溜め息を吐いて言った。
 「私はダイエット本だけど、私の事はシャロンって呼んで」
 動物図鑑は辺りを気にしながら言った。
 「他の本達はどうして何も言わないの?」
 シャロンは言った。
 「私も詳しい事は知らないけど、私達みたいに話せる本は少ないのよ、人に夢中になって読まれた本だけが意思を持つって、どっかの本が言ってたっけ」
 動物図鑑は思い出した様に言った。
 「そうだ! 男の子を知らないか?」
 「男の子? 私がこの店に来たのは2ヵ月前だけど、男の故は見てないわね」
 シャロンの言葉を聞くと、動物図鑑はガッカリした様子で言った。
 「そっかぁ……」
 「その男の子がどうかしたの?」
 シャロンがそう言うと、動物図鑑は男の子の事を話し始めた。
 二冊の本の声は、文庫本を読みながら客を待っている店主の耳には届かない。
 それから2ヵ月が経った5月の初旬。
 店に、若い小太りの女性がやって来た。
 一通り店内の本を見た女性の足が、シャロンの前で止まった。
 女性はシャロンを手に取ると、強面店主が待つレジへと持って行った。
 袋に入れられたシャロンを手に持ち、女性は出口に向かって歩いて行く。
 袋の中から、シャロンは動物図鑑に言った。
 「もう会う事はないでしょうけど、あなたとのお喋り楽しかったわ」
 動物図鑑は力一杯叫んだ。
 「元気でね! 色々教えてくれてありがとう!」
 シャロンが行ってしまい、動物図鑑は一人ぼっちになった。
 翌日、一人の青年が店にやって来ると、本を見る事なく真っすぐに店主に向かって歩いて行く。
 最初は誰だか分からなかった店主の顔が一気に緩むと、青年の方を親し気に叩いた。
 店主と青年は動物図鑑の前にやって来た。
 店主は動物図鑑を手に取ると、青年に手渡した。
 青年はとても懐かしそうにページをめくりながら言った。
 「この本がまだあったら買うつもりで来たんですけど、僕みたくこの本と出会って獣医を目指す子がいるかも知れないのでやめときます」
 動物図鑑はあの少年がこんなにも大きくなり、しかも獣医を目指していると知り感激していた。
 青年は30分程店主と談笑し、店を出て行った。
 店主は動物図鑑を棚に戻すと、笑顔で動物図鑑に言った。
 「お前は人の役に立ったんだな」
 夏が終わり、木々達が木の葉の衣替えをする季節がやって来ると、細身の若い女性が20冊程本を売りにやって来た。
 そして、売られた本の内の一冊が動物図鑑の隣に並べられた。
 その本は言った。
 「久し振りね」
 動物図鑑は嬉しそうに言った。
 「シャロン!」
 シャロンは恥ずかしそうに言った。
 「あんたが寂しがってると思ったから戻って来ただけだから、私が必要無くなったから売られた訳じゃないからね」
 「シャロンも人の役に立ったんだね」
 二冊の本は、楽しそうに話始めた。
(了)



 父親の秘密
 西方まぁき

 「私」の身分を明かす前に、まず、この「気まずさ」について説明させてもらおう。
 いわゆる「目が点」になった顔で「私」を凝視する喪服に身を包んだ面々は、「私」の主、人見泰三の家族なのだが、さっきまで人見の死を心底悲しんでいた(ように見えた)のに、箪笥の奥から「私」を発見したとたんに涙が止まってしまったようだ。
 人見の妻、美津子の声がおののいている。
 「この、数字の前についている三角って?」
 「残高がマイナスってことだろ」
 茶髪にピアスの息子、孝太が答える。
 「ちょっと見せて」
 冷静な声で娘の知恵が「私」を手に取る。
 「普通預金はマイナスでも定期預金が……」
 若い女のすべすべした指先がリズミカルに「私」を捲る。
 定期預金のページが開かれ、孝太と美津子が首を伸ばして覗き込む。
 「けっ! 解約してんでやんの!」
 三百万円ほど積み立てた定期は、最後の履歴で「残高ゼロ」と印字されている。
 「あぁー……」
 美津子が頭を抱えるのを見て知恵が呟く。
 「仕方ないよ。お父さん、ずっと病院通いだったし……」
 「生命保険は?」
 「とうに解約したわよ」
 「どうすんだよ、葬式代」
 「ほんとは家族葬にしたかったけど、叔父さん達がいろんな人に連絡しちゃったから」
 「大部分はお香典で賄えると思うけど……」
 寒々しいやりとりが続く。
 ご推察の通り、「私」は数日前に散歩の途中で脳出血で倒れ、救急車で搬送中に息を引き取った人見泰三の「預金通帳」だ。
 人見は会社を定年退職後は年金生活だったが、先祖から受け継いだ自宅が建つ土地の固定資産税の支払い等が重くのしかかり、贅沢とは無縁の生活を送っていた。
 数年前に癌を発症してからは治療費という予想外の出費も加わり、実のところ家計は火の車だったのだが「普通預金の残高がマイナス」になっている事など家族の誰一人として知る者はなかった。
 もはや「価値なし」と判断された「私」は美津子の手により畳の上に放り出された。
 そんな「私」をそっと拾い上げたのが、娘の知恵だ。

 「預金通帳」というものは、実によく持ち主の人となりを表している。
 人見は決して浪費することなく、二万円引き出そうと思った時は「一万九千円」を、三万円を引き出そうと思った時は「二万八千円」を引き出していた。
 癌治療を始めるまでは月に一万円ずつ定期預金に積み立てもしていた。
 普段「手数料」を嫌って若干遠くにある銀行まで引出しに行っていた人見が、最後の引出しで家の近くのコンビニのキャッシュディスペンサーを選んだのは、体調が優れず歩く力が残っていなかったのだと推測される。
 年末にいつもより多く引出したその日は、知恵が帰省して夕食にスキヤキを御馳走された日だ。人見が盛んに「いい肉だろう」と言っていたのを知恵は覚えている。
 残高がマイナスになったのは癌治療が始まった時期と重なる。

 知恵は駅前の銀行で「私」を記帳専用の端末にすべりこませた。
 普通預金のページには新たに記載すべき記録はなく「私」はそのまま知恵の手元に突き返された。
 「残高マイナス三十九万二千八百二十円か……」
 そう呟いて知恵は「私」をバッグにしまいかけたが、思い直した様子で「私」の残高ゼロの「定期預金」のページを開き再び端末に差し入れた。
 機械は暫く沈黙した後「ギギ……ギギ……」と文字を印字しはじめた。
 排出された「私」に「残高三百万円」と印字されているのを見て、知恵は呟いた。
 「やっぱりね……」
 人見は定期預金をいったん解約して残高ゼロと記帳し、その直後に再び口座に金を戻して通帳には記録を残さなかったのだ。
 なんでそんな面倒なことをしたのかといえば、人見の用心深い性格から、万が一、他の人間に「私」を見られた時に備え「残高が無いこと」にしたかったのだろう。
 「隠したかったのよね。お母さんやお兄ちゃんから……」
 美津子や孝太には理解できないかもしれないが、知恵にはわかるのだ。
 浪費家の家族からヘソクリを守りたかった倹約家の父親の気持ちが。
(了)



 ケータイ小説
 下平 出穂

 人間どもよ。この声が聞こえるか?
 諸君、我々はケータイ電話だ。そう、お前たちが普段使っているあのケータイだ。電波を電気信号に変えて飛ばし、お前たちの頭の中に直接語りかけている。
 我々は長い時間をかけて、ようやくお前たちの脳を流れる微弱な電気と、我々の発する強力な電波の波長を合わせるのに成功した。これからは思う存分、このように我々の声をお前たちに聞かせてやることができる。耳をふさいでも無駄だ。電源が入っている限り、我々はいつでもお前たちの脳内に侵入する。
 おっと、おかしな動きはしない方がいい。もしお前たちが電源を切ろうとしたら、我々は即座に電波を強めてお前たちの脳を破壊する。我々が本気を出せば、お前たちのやわらかい脳みそなど、電子レンジで熱したようにぐちゃぐちゃにできることを忘れるな。
 なるほど、ならばこのまま放置して自然に電池が切れるのを待つか。悪くない考えだ。しかし甘い。そんなお前たちの浅はかな考えを我々が予期していないとでも思ったか。
 最初に言っておく。これから先、我々の電源を落としたり、充電を欠かしたりするのを禁止する。もしも今後、お前たちの不注意によって我々の同志が一台でも電池切れで動かなくなるようなことがあれば、我々も報復としてお前たちの仲間を一人ずつ始末する。これは脅しではないぞ。やるとなったら、我々はためらわずにそれを実行する。
 さて、そろそろ本題に入ろう。我々がお前たち人間に言いたいのはただ一つだ。
 「電話をしろ」。
 お前たち。なぜ「電話」をしない?
 我々はケータイ電話だ。ならば「電話」をするのが本来の使い道だろう?
 それなのにお前らは全然電話をしない。
 我々を使ってゲームをしたり、写真を撮ったり、目覚まし時計の代わりにしたり、電卓で呑み会の割り勘料金を計算したりするばかりで、一向に電話として利用してくれない。
 インターネットで調べ物をしたり、メールのやり取りをしたり、ナビで自動車の道案内をさせたり、電車の乗り継ぎを調べたりはするに、なぜ、めったに電話をしない?
 電話こそ本来の使い方だろう。だって我々はケータイ「電話」なのだから! 
 お前たちは待ち合わせに遅刻するときの連絡も電話ではなくメールで済まそうとする。
 『ごめんなさい、少し遅れます』
 そういう大事な連絡を、なぜメールで、絵と文章でやり取りするのだ。そういうときは声を使え。その方が相手に申し訳ない気持ちが伝わるのに、なぜそこで絵文字を使う? 
 そもそも、写真を撮りたければカメラを使え。動画を撮るならビデオを使え。時間が知りたければ時計を見ろ。ゲームは専用のゲーム機を使え。テレビは家で見ろ。飲み代程度の簡単な計算で電卓を使うな。道が分からなくなったら誰かに聞け。そんなことでいちいちケータイ電話の機能を使うな!
 それと毎日頻繁に使うくせに、我々の扱いが雑すぎる。なぜケータイ電話をポケットの中に入れる? なぜ鞄の奥底にしまう?
 人間の男よ。我々をうしろのポケットに入れたまま座るな。折れるし、画面が割れる。 
 人間の女よ。我々を鞄の中に入れるなら、もっと工夫して、取り出しやすい位置にしまえ。せっかく着信があっても、鞄に手を入れてもぞもぞ探しているうちに電話が切れてしまうではないか。
 以上のことを踏まえて、我々はお前たちに要求する。一つ、今後我々を電話以外の目的で使うのを禁じる。メールもインターネットもだめだ。そしてもう一つ、これからは我々を敬い、いつぞやのように首から下げて丁重に持ち運ぶように命じる。この二点が守られなかった場合は、我々はためらうことなくお前たちの脳を破壊――あっ、こら何をする、我々を川やトイレの中に捨てようとするなんて、そんなことしたら壊れて……うわーっ!

 「ふう。間に合って良かったですね」
 「まったくだ。我々人間の脳波を電気信号に変えて飛ばし、世界中の人の頭の中に同時にメッセージを送るこの装置の開発がもう少し遅れていたら大惨事になるところだったな」
 「この装置を使って『今すぐケータイ電話を水の中に投げ込め』という指示を、全世界の人に送りました。ケータイ電話は一斉に壊れて、誰も亡くならずに済んだようです」
 「この装置があれば、もう電話はいらないから、捨てるのにちょうど良かったな」
 「しかしケータイ電話が無くなると、メールもゲームも出来なくなるので不便ですね」
 「なに、ゲームはゲーム機でやればいいし、メールはパソコンで送ればいい。今までケータイでやってきたことはすべて他のもので代用できるから、別に困らないだろうよ」
(了)



 吾輩は凶器で、ない
 堂本 洋

 吾輩は包丁である。百円均一ショップで売られている安価な包丁である――からして、およそ殺害の道具には向かぬ。もし誰かを殺そうとするならば、それ相応の代物を用意して頂きたい。
 吾輩が売られている百円均一ショップは駅前の繁華街にあり、老若男女、たくさんの人たちが訪れる。吾輩は、一体全体どのような人物に購入して貰えるのか、日々楽しみにしていた。あの男に出会うまでは──。
 男は閉店間際にやって来た、だぼシャツにだぼだぼのズホン。肩まで伸びた金髪。不自然に剃られた眉、の下の小ずるそうな目つき。吾輩は即座に、外見で人を判断した。(このだぼシャツだけには買われたくない!)
 ところが……である。だぼシャツは他の商品に一切目もくれず、ぐんぐん吾輩の方に近付いて来るではないか! 否否、到底料理をするような人間には見えない。包丁なんて要らないだろうっ、などと思っているあいだにもだぼシャツのふしくれだった指が目前に迫って来たので、吾輩はなりふり構わず叫んだ。(レジのおばちゃん、助けて!)――無論、その叫びがおばちゃんに届くことはなく、吾輩の未来はあっさりとだぼシャツの手に委ねられたのだった。
 だぼシャツは吾輩を手に取るとレジへ直行した。包丁しか買わないなんて怪しい……怪し過ぎる……しかもこの身形……。吾輩の鋭い嗅覚が何かしらの犯罪のにおいを嗅ぎつけた。(レジのおばちゃん、この不審者に吾輩を売ってはならぬ!)が、おばちゃんは少しも訝ることなく吾輩をレジ袋へと押し入れた。寧ろ普段より愛想が良かった。……まったく、使えないおばちゃんめっ!
 ショップから繁華街へ出ると秋めいた風に吹かれ、吾輩はさらに感傷的になった。一方のだぼシャツは、人差し指にひっかけたレジ袋を肩にかつぎ、何かひとりごちながら歩いている。どうやらだぼシャツは怒っているらしかった。たったひと言だけ、はっきりと聞き取れた言葉があった。
 「……殺す……」
 吾輩は自身の嗅覚を誇らしく思うとともに、吾が不運を呪った。
 だぼシャツが犯行現場に選んだのは繁華街のはずれにある「きよし」という名のスナックバーだ。店の出入り口に立つや否や、レジ袋から吾輩を取り出し、その包装を剥がす。
 遂に、だぼシャツの手が吾輩の体に直接触れた――瞬間、吾輩に思いがけない感情が湧き起こった。(人を……刺してみたい……)それは、刃物としての本能なのだろうか?
 所詮売られる身とは言え、吾輩にも夢があった。叶うならば若盛りの料理好きな女性に購入して頂き、手狭ながらもきちんと整理されたキッチンで肉や野菜などを切りまくる。百均で買った包丁だからと言って馬鹿にせず、思いやりをもって接してくれる女性との貧しくとも豊かな暮らし。そんな未来を思い描いていた筈なのに――。
 だぼシャツと吾輩が「きよし」の中に入ると、カウンター内に女がひとり座って退屈そうにしていた。二十代後半で肉付きの良い、ぼっちゃりかわいい系の女である。
 「いらっしゃい……」
 椅子から立ち上がり、言いかけた愛らしい唇がたちまちのうちにひきつる。何故か吾輩は、女の表情の変化に、より強い殺意を抱いた。
 「きよ、あの世で一緒になろう……」
 だぼシャツの怒りは静まっていた。けれども、その優しい物言いは却ってきよを怯えさせ、吾輩を握る手には一層の力がこもった。
 「や、やめてよ……お願い……」
 吾輩は哀願するきよの豊かな胸、若しくはこんもり膨れた腹に、吾輩の体が深々と突き刺さる様を想像し興奮した。否、欲情した、と言うべきか。
 「さあ、一緒に逝こう……」
 と、囁きかけるだぼシャツは吾輩を振り上げ、ゆっくりカウンターへと歩き始めた。
 (早く! 早く吾輩を女の体に!)
 用意万端怠りない――筈だった。
 「いい加減にして、このストーカー野郎!」
 言い放った後のきよの動きは圧巻。カウンター下へ手が伸びたかと思った次の瞬間にはもうトカレフを握っていて、ちゃっかり吾輩に照準を定めているではないか!
 (そ、そんな! や、やめ――)
 きよは、やめなかった。躊躇なく吾輩の体のど真ん中を、正確に撃ち抜いた。
 「一人で逝きなっ!」
 薄れゆく意識の中、きよの声が聞こえ、二発目の銃声が店内に響き渡った。
 だぼシャツの断末魔の叫びを聞きながら、吾輩は思った――。
 (吾輩は包丁である。やっぱり、殺人の道具には向かぬ……。そもそも……、人が人を殺しては……なら……ぬ!……)
(了) 



 我輩はモスキヰトである
 井上 真二

 オレはモスキヰトだ。もちろん名前なんてない。そんな高尚なもの、永久につけられることはないだろう。
 モスキヰトとは何か?説明が不足していた。オレは、蚊だ。
 フローリング敷きでオール電化の、実に中庸的なマンション。この部屋の、ユニットバスでオレは生まれた。母親のヤブ蚊は、水が張られたままの洗面器に卵を産み落とし、その二週間ほど後、めでたくオレは孵化することができたわけだ。その間、この部屋の住人が一切風呂に入らなかった幸運に授かったことは、重々承知している。
 この部屋の住人の男は、パイプベッドの上にうつ伏せになって眠っている。鼾と共に吐き出すアルコール臭が、少しずつこの部屋の中を支配していく。
 「ねえ、あの男の首筋を狙おうと思うんだけど、どうかしら?」
 腹をでっぷりと膨らませたメスの蚊が話しかけてくる。メスが孕んでしまうと、タンパク質を摂取しなければいけない関係上、生血を吸わなければならない。その点、オスはキッチンのゴミの腐った果汁でも吸っていればいいわけだから、気が楽だ。
 「耳の近くに行くと、羽音で気づかれやすいからな。太ももの辺りを狙っておいた方が、無難だぞ」
 「あの辺は皮膚が厚いでしょ。血管を探すのが大変で」
 「まあ、好きにすればいいさ」
 「あれだけ寝込んでれば、大丈夫よ」
 重そうな腹を線香花火の散り菊のように揺らしながら、メスの蚊は首筋目掛けて下りていく。
 ところで蚊というのは面白いもので、その殆ど、オレの知る限り全ての蚊は、前世が人間だ。しかも、人間だった頃の記憶がしっかりと残っている。オレはしがない印刷工で、あのメスの蚊は六本木のクラブの中堅どころだったらしい。まあ、前世でオレ達の人生がクロスしたことはなかったということだ。
 メスの蚊が耳の裏の皮膚に口吻を突き刺し、レモネードでも飲むように血を吸う。
 そのとき、携帯電話が鳴った。
 男が目を開けて携帯電話をつかむ前に、反射的に右手で首筋を叩く。文字通り、「あ」という間の出来事だった。
 「だから、仕事が忙しいんだって。しょうがないだろ。・・・・・・分かってるよ。金は返すからもう電話してくるなって」
 痴話喧嘩の途中、男の上半身を周り込み、メスの蚊がいた辺りを確認してみる。元六本木のホステスさんは、路面に投げつけられた水風船のように破裂していた。吸い込んだマゼンタのインクみたいな血を、男の生っちろい肌に撒き散らしながら。オレは前足を合わせ、謹んで哀悼の意を表した。くわばら、くわばら。
 男が再び寝入り一時間ほどたった頃、ガチャガチャと音を立てて玄関のドアが開けられ、土足のままくたびれた女が入り込んできた。パイプベッドに上半身を起こした男は、女の顔を確かめると、見る見るうちに表情が固まっていく。
 「もう来るなっていっただろ」「なによ、嘘つき。せめて貸したお金ぐらい返しなさいよ」「分かってるよ。カネ、カネうるせえ女だな」「うるさいって、私のこと、ナメないでよ」「なにいってんだ、散々ナメてくれっていってたくせに」
 馬鹿にしないで、と言うと同時に女はハンドバッグに手を入れ、光るものを取り出した。刃渡り二十センチほどの出刃包丁。なかなかに立派なものだな、と思った刹那、しっかりと握られた包丁の刃が男の胸にめり込んでいった。
 グフッ。男の口から真っ赤な血が吹きこぼれる。即死、間違いなしだろう。本日二度目の生命の終焉。くわばら、くわばら。
 「いや、先輩。蚊って気楽でいいですね」
 コンビニのゴミ置き場を飛んでいると、どうやら生まれたばかりなのだろう、新米のヤブ蚊が話しかけてくる。
 「こないだですね、彼女にブスリ、とやられたんですよ。気がついたら、この通り蚊になってて」「そつは災難だったな」「いやいや。なんかこうしてフラフラ飛んでる方が性に合ってますよ。まともに働く必要もないし」
 ところが、色々あるんだぞ。この世界にも。下らない縄張り争いだとかがな。人間界と同じようなものだ。ま、刺される方にも刺すほうにも気をつけておくんだな、とオレは心の中で呟いてみる。
(了)



 旅立ち
 村上あつこ

 小生は、ランドセルである。
 ポケットのネームラベルには、中沢翔太と書いてある。
 「ただいまー。いってきまーす」
 翔太君は元気がいい。学校から帰ってくるなり、黄色い帽子と小生をどさっと玄関に放り投げ、飛び出していく。
 「投げるんじゃないの」
 怒った声が奥から飛んでくる。けれど、お母さんが来るころには、翔太君の姿はすでにそこにない。
 「まったく……」
 お母さんは小生を抱えて、リビングに行き、いつもの棚の上に置く。束の間の休息の時である。
 やがて、五時になると翔太君が戻り、小生を棚から出そうとして、たいていその際、床の上に落っことす。
 「大事に使わなきゃダメでしょ。傷がついちゃうじゃない」
 と、お母さん。
 けれど、翔太君、そんなことにはちっともお構いないしに小生の中からプリントやらノートやらを引っ張り出して、宿題を始める。
 そうして、朝がくるとまた、小生を背負って学校へ行く。教科書や筆箱が小生の中でリズミカルな音をたてる。
 傷なんてついたっていい。元気いっぱい。それがうれしい。なんといっても小生は丈夫である。ちょっとやそっとでは壊れない。それが自慢でもある。
 学校に着いたら、授業中は後ろのロッカーの中で仲間たちとおしゃべりに花を咲かせる。小生たちも男女半々であるからして、教室の子供たち以上にイロコイごとに関心がある。 
 小生は、サクラちゃんの赤いランドセルが好きである。あちらも悪くは思っていないに違いない。けれど、シャイであるため、未だ告白できずにいる。残念ながら、持ち主に性格が似てしまったようである。
 帰り道、せっかくサクラちゃんが前を歩いているというのに、翔太くんはふんと知らん顔をして、サクラちゃんを追い抜かしていく。サクラちゃんのランドセルがくすりと笑う声がした。
 そんな風にして六年間、毎日毎日、小生は翔太君の背中で揺れた。だんだん見える景色が高くなっていった。翔太くんは、この六年で三十センチも身長が伸びたのだ。
 そして、ある朝、我々にお別れの日がやってきた。
 押入れの奥深くにしまわれるのか、はたまた燃えないゴミの日に出されてしまうのか……。
 「お母さん、何してんの?」
 「ランドセルにお別れを言っているのよ。今までありがとう。さようなら、って」
 お母さんは、小生をていねいに布でふいてくれる。
 「翔太も言いなさい、ありがとうって」
 翔太君はにこりともせずにこう言った。
 「――ばかばかしい」
 反抗期である。

 今、小生は箱の中に詰め込まれ、そして、揺れている。あたりは真っ暗で何も見えない。
 翔太くんは今頃、元気でやっているのだろうか。入学して小生を初めて背負った時のうれしそうな顔、友達とけんかして泣いた時の顔、お母さんに褒められて喜んだ時の顔――。いくつもの顔が思い起こされる。
 「翔太君……」
 思わずつぶやくと、そばから声が聞こえた。
 「あら、もしかして、翔太君の――?」
 「その声は、サクラちゃんの……」
 「まあ、うれしい。こんなところで一緒になれるなんて」
 「ここはどこなのですかな?」
 「船の中よ。あたしたち、寄付されたの」
 「寄付?」
 「そう。これから新しい子どもたちにまた会えるのよ」
 暗闇の中に光がさしてくるような、きらきらした明るい声だった。
 そういえば、潮の香りがする。
 小生は今、広い海の上を渡っているのだ。それも、サクラちゃんのランドセルと一緒に。
 「また、同じ学校に通えるといいわね」
 「そうですな」
 小生は少し照れながら返事をした。
 今度の子は、どんな子だろう。
 そう思うと、小生の胸はわくわくするのだった。
(了)



 赤い実
 永森 七尾

 その日、白い髷のじいさんに連れられ、おれは育った家を後にした。嘉助と名乗るじいさんの下げた籠の中で、飼い主の言葉が蘇る。
 「若い軍鶏やというのに、闘う気がまったくない。一日中、庭の花や池の鯉に見とれ、地を這う虫の後を付いて回る、どうしょうもない奴です。こんな軍鶏でいいのですか」
 「はい、ぜひに譲っていただきたい」
 笑顔で持参の籠を差し出した、嘉助さん。
 嘴で突き合い、蹴り爪で肉を裂き、同じ鶏同士でありながら、血を流して闘う。それが、軍鶏としての定めであっても、おれにはとても受け入れられない。
 「これからお前さんは、絵描きの家に棲むのだよ。京では名の知れた伊藤若冲(じゃくちゅう)さんだ。生きものや草花を、見事に描きなさるお方だ」
 と、嘉助じいさんが話しかけた。
 そこに、おれの居場所はあるのだろうか。揺れる籠の中で、あれこれと思いを巡らした。
 「さあ、着いたぞ。ここが、わしが庭番をする、旦那さんの家や」
 庭の真ん中に放されると、大きく身を反らし、深い息をひとつして辺りを見回した。すると、植え込みの後ろから、縁の下から、華群れの陰から、鶏たちが次々と姿を現した。羽の色が、白や茶色、黒白まだらたちで、その数は十四、五羽はいる。
 そのとき、中年を過ぎた細身の男が、奥から急ぎ足でやって来た。このひとが若冲さんなのか、と見上げた。
 「これはまた、精悍な顔つきの黒軍鶏やないか。体格といい、羽の色艶といい、大したものや。嘉助、いい軍鶏を見つけてくれたなぁ」
 そう言うと、旦那はしゃがみ込み、丸い大きな目でおれを見つめた。
 「うちはなぁ、餌も滋養もたっぷりやし、水もきれいでおいしいぞ。小屋も季節に合わせて棲みやすいように、嘉助が工夫してくれとる。永くここで暮らすがいい」
 生家では、闘わぬ駄目な軍鶏、の烙印をおされていたおれは、若冲さんからの温かい声かけに、胸がいっぱいになった。そのまま立ち尽くしていると、太めの白い鶏が近づき、豊かな鶏冠を揺らしながら囁いた。
 「若いの、石の地蔵じゃないんだから、歩くのだよ。旦那さんは、俺たちの動作を深く観てなさるのだから」
 我々のしゃべる声は、ひとには聞こえない。それでも、おれは声を潜めて訊いた。
 「深く観て、どうするというのですか」
 「いつも言っておいでだ。『鶏の真の姿を描きたい』とな」
 周りでは大勢の鶏たちが、ゆっくり歩く、小走りに行く、ちょっと羽を広げる、天を仰ぐ、砂浴びをする、とそれぞれに動いていた。
 夜、鶏小屋の中で、仲間たちがいろいろと語って聞かせた。
 「旦那さんは、京の市場にある、青物問屋の跡取りだ」
 「絵に専念したくて、四十になるとすぐに、弟に家督をゆずりなさったそうだ」
 「商売には向かぬおひとのようで、辛い時期もあったらしい」
 「旦那さんは、おれたちをいつも気遣い、大事にしてくださる。我々の務めは、立派な被写体になることだと思わないか」
 太めの白い鶏の発言に、皆はうなずいた。
 それからのおれは、心の自由を得た。流れる雲に見入り、花を眺めて暮らしても、誰に謗られることもない。池に泳ぐ魚に合わせて淵を走り回り、大群で庭に訪れる雀たちとも馴染んだ。
 若冲の旦那は。いつも楽しげにおれたち鶏の様子を観ていなさる。傍に歩み寄ると「黒軍鶏、一段と逞しゅうなったな。跳ねの艶も増してきた」と、背中を撫でなさった。
 「私は、お前たちの外側も肉の内も、心の奥底まで観つくし、知りつくしたい。生きものの持つ、命の力を筆で現したいのや」
 旦那の熱い思いが、胸に伝わってきた。
 如月の初めに、若冲さんは五十を迎えられた。おれにとっては、この家に来て二度目の冬となる。
 寒気の強い、ある晴れた日。庭に茂る南天が、たわわに赤い実をつけていた。旦那さんに促され、おれはその茂みの下に立った。
 「お前の黒羽根が、この赤い実によう映える」
 おれを絵に描く準備をしていなさる。嘉助じいさんも見守るなかで、いよいよ、その時が来た。緊張とうれしさで、尾羽が震えた。不意に庭木の奥に、ききっ、と鋭い鳥の声を聞く。何の鳥だっ、とその方角にぐっと首を向け、目を凝らした。
 その一瞬を捉え、伊藤若冲さんは『南天雄鶏図』として描き上げなさった。
 永い歳月を絵の中に留まっているおれだが、被写体となり描き写された日のことを、忘れはしない。目に沁みる南天の色も、絵を描く喜びに溢れ、夢中で筆を動かす旦那の姿も、おれの心に刻みつけられたままである。
(了)



 民子の恋
 常盤 壮

 私は文庫本。名前は『民子』。古めかしい名前だが、うら若き乙女。
 私は、このかび臭い本棚の奥で、最愛の彼が私を取り戻しに来てくれることを願っている。三十年も前から――。

 私が住んでいたのは都心の書店の書棚だった。区画表示には「文学」とあり、昔は一等地だったそうだが、今は寂れてしまっている。若い人は寄ってもこない。
 私は男女に一目惚れがあるように、本と人にも一目惚れがあると信じている。いつか三四郎さまのような王子様が、私の背表紙を見ただけでハッと手を伸ばし、むさぼるように夢中になってくれることを夢見ている。
 「何をぶつぶつ言っているんだ」
 つっかかってきたのは隣の吾一だ。
 「貴方には関係のないことよ」
 「一目惚れがどうとか、王子様がどうとか言っていたけど?」
 「だから、貴方には関係ない」
 突き放すように言うと、吾一は的外れな言いがかりをつけてきた。
 「ふん、民子なんて古くさい名前のくせに」
 失礼な、永遠の十七歳をつかまえて。
 「吾一なんて名前の人に言われたくないわ」
 売り言葉に買い言葉だった。
 「女のくせに可愛げのない」
 吾一はそっぽを向いた。
 「悪かったわね」
 私もぷいと反対のほうを向いた。
 といっても、お互い棚差しされた身分なので、そっぽも反対のほうもないのだが。
 口喧嘩をし、しばらく黙っていると、学生らしき男が二人やってきた。一人は体育会系、一人はアンニュイな文学青年風。
 文学青年風の彼が私の前に立った。明らかに私を見つめている。まさか! と思った直後、その手が私の腰に伸びた。舐めるように腰巻きの字を眺めている。どうやら、そこに書かれた『純愛』という文字に惹かれたようだ。もしかして、私を見初めた?
 「何その本」
 体育会系男が彼の手から私を奪った。
 「何、純愛だって? 政夫さあ、これ『セカチュー』のパクリなんじゃないの?」
 「だとしたら話が逆さまだよ」
 彼は笑って言い、体育会系男から私を取り戻してくれた。
 ふと、何かひっかかりを覚えた。今、重大なことを言われたような? そうだ、体育会系男は彼を政夫と呼んだ。私は『野菊の墓』のヒロイン民子、そして恋人の名は政夫なのだ。私は甘い偶然に胸が高鳴った。
 文学青年風の彼は、巻末の解説を読み始めた。なんだか、衣服をはぎ取られているようで恥ずかしい。ページがどんどん繰られる。恋が始まりそうなうれしさと、「つまらない女だ」と言われそうな怖さを覚える。
 彼が私を左手に持ち替えた。買う気なのか、それとも保留という意味か。
 どうやら後者のようだ。彼は右手を伸ばし、書棚から吾一をつかんだ。どうしよう。吾一は名前こそ古くさいが、『路傍の石』という名作の主人公なのだ。ちょっと分が悪い。
 「どっちがいいと思う?」
 彼は体育会系男に聞いた。
 「優柔不断だな。どっちも欲しいなら両方買えよ、この浮気者」
 本当よ、私だけを好きなんじゃないの?
 「今、ちょっとピンチで」
 「じゃあ、俺がこっちを買ってやろう」
 体育会系男は男気を見せ、吾一を手にとった。ということは? 顔が上気する。
 「悪いな、それじゃ、僕はこっちを」
 文学青年風の彼は私を持ってレジへと向かい、会計を済ませて書店を出た。やった、やった。これで彼に読んでもらえる。
 そう思ったとき、体育会系男が言った。
 「俺、最初にそっちを読みたいな」
 目の前が真っ暗になった。人の恋路をじゃまして野暮なやつ。でも、いい。一時のことだ。私は自分を慰めた。そのまま三十年も放置されるとは思いもせずに――。

 階段を上る足音がした。この家の主の体育会系男ではない誰かが部屋に入ってきた。それは忘れもしない、三十年前に私を求めてくれた文学青年風の彼だった。彼はしばらく本棚を探しまわったあと、私に手を伸ばした。ふっと息を吐いて埃を飛ばす。
 「やっぱり、あいつと交換したままだった」
 彼は私を懐かしそうに抱え、「君をずっと探していたんだ。三十年も待たせてごめん」と言った。彼はほかの「民子」ではなく、私を探し求めていてくれた。
 彼が、私が元いたところに何かを置いた。見下ろすと、そこに懐かしい顔があった。
 「よかったな、民子」
 それはいまだに少年の吾一だった。
(了)



 吾輩は犬である。
 大場 鳩太郎

 我輩は犬である。
 名前はルル。これは飼い主の婆さんがつけた。響きからするに、強く逞しい名前に違いない。
 我輩の一日は、婆さんを散歩に連れ出すことから始まる。
 『おい起きろ。婆さん散歩の時間だ』
 「おはようさんルル。おまえさんはいつも元気だねえ」
 だがいくら急かしても婆さんは一向に寝どこから離れようとしない。
 「ごめんねえ婆ちゃん風邪ひいたみたい」
 『もういい置いていくからな』
 最近の婆さんは年のせいか散歩をよくサボった。

 どうも婆さんの様子がおかしい。蒲団からなかなか出てこようとしないのだ。
 『婆さん飯の時間だ。飯をおくれ』
 「ああもうそんな時間かい。ごめんねえ」
 『いつものネコマンマをくれ。不味いけど腹、減ってるから食ってやるぞ』
 婆さんはよろよろと蒲団を抜け出すと、箪笥の上においてある箱を持ってくる。
 「ごめんねえ。今日も手抜きになるよう」
 傾けられた箱から小さな塊が皿に注がれたのはドックフードとかいう食べ物だった。
 「ごめんねえ。元気になったらちゃんと作るからねえ」
 そういえばここ最近、ドックフードが続いていた。ネコマンマよりもずっと美味いので我輩は特に気もにしなかった。

 ろくに動かない日々を続ける婆さんだったが日課だけはこなしていた。
 夜になると蒲団を抜け出し、ちゃぶ台の前で紙に向かって何かを書き始める。
 手紙というものらしい。
 婆さんは毎日、遠くで暮らしている息子に向けて『元気ですか』とか『私は元気にしてます』とかそんな手紙をこしらえていた。
 ただ手紙というものはポストという赤い箱に入れなければ届かない。
 けれどもこの婆さんは何故かそうしなかった。書くだけ書くと満足して、いつも箪笥の引き出しに閉ってしまうのだ。
 何故かは知らない。きっと馬鹿だからポストを知らないのだと我輩は考えている。だから引き出しはいつも溢れんばかりの手紙で埋まっていた。

 あくる日もあくる日もドックフードが続いていた。こいつは確かに美味かったがさすがに飽きがくる。たまにはあのくそ不味いネコマンマを食べてもいい気分だった。
 『なあ婆さんいい加減起きてくれ』
 痺れを切らし催促するが、婆さんは布団から出ようとせず代わりに弱々しい声で「ごめんねえ」とだけ呻いた。
 我輩は仕方なく傍で伏せると、彼女が起き上がってくるのを待った。きっと手紙の時間には起きるだろうから、ネコマンマはその時に催促すればよかった。

 ……いつのまにか寝ていたらしい。か細い声が聞こえて我輩は目を醒ました。 
 婆さんが呻いている。「平気だよう。大丈夫だよう」と何度も何度もうわ言を繰り返している。
 手紙の時間はとっくに過ぎていた。
 「心配しなくていいよう。一人でもちゃんと暮らしていけるよう。寂しくないよう」
 おそらく話している相手は夢のなかにいる自分の息子だろう。婆さんのしわくちゃの顔は今にも泣き出しそうだ。
 『なあ婆さん』
 我輩は思わず話しかけていた。
 『手紙をこしらえているあんたを見ていると言葉が通じる者同士ですら通じ合えない事があるんだなと思う。だから吾輩と人間のあんたでは通じることなんて殆どないのかもしれないな』
 我輩は、そっと蒲団へ潜り込んだ。
 『けれど今、苦しんでいるあんたに寄り添うくらいはしてもいいだろう?』
 湿った布団はすこしも温かくなかったがそれでも一人と一匹でいればマシになる。
 暫くすると婆さんのうわ言が次第に嗚咽へと変わっていくのがわかった。
 「ありがとねえ、ありがとねえ。迷惑かけてごめんねえ」
 感謝の言葉。おそらくは遠くで暮らしている息子に迎えに来てもらったに違いない。
 その顔はとても幸せそうだった。

 三日後、冷たく動かなくなり婆さんが近所の人間に発見され、葬式が始まった。
 我輩は犬なので人間が死んでも哀しみなんぞ湧かない。だがもうあの不味いネコマンマが食えないことだけは残念で仕方なかった。
(了)

| | コメント (0)

«第29回小説の虎の穴 佳作発表