第19回 創作童話がイッパイアッテナ 応募要項(7/8締切)

■第19回課題 自由(毎回自由テーマ)

■応募枚数 400字詰換算5枚厳守。ワープロの場合は書式自由。

■応募方法 
○郵送の場合 原稿のほか、コピー1部を同封。
作品には表紙を付け、表紙にタイトルと氏名のみ併記(それ以外の個人情報は作品には書かないこと)。
別紙に〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を明記し、原稿と一緒にホチキスで右上を綴じる。
コピー原稿には別紙を添えないこと。
用紙はA4用紙を使用。横位置で使用し、縦書き。折らないこと。

○メールの場合 wordの添付ファイルで応募。
作品には表紙を付け、表紙にタイトルと氏名のみ併記(それ以外の個人情報は作品には書かないこと)。
別紙に〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を明記。
用紙はA4に設定。横位置で使用し、縦書き。

■応募条件 作品は未発表オリジナル作品とし、採用作品の著作権は公募ガイド社に帰属します。
作品は返却しません。
■審査員 斉藤洋(童話作家)
■賞 最優秀賞1編=賞金1万円 佳作9編=記念品

■応募先 郵送の場合 〒160-8549(住所不要)公募ガイド編集部「第19回創作童話」係
宅配便の場合 〒160-0002東京都新宿区坂町27-5-7F 公募ガイド編集部「第19回創作童話」係) 
メールの場合 douwa@koubo.co.jp(件名「第19回創作童話」)
■締切 7月8日(消印有効)

| | コメント (0)

第7回 小説の虎の穴 応募要項(6/30締切)

■第7回課題
世の中、そうあってほしいとしみじみ思えるような人情話を!

■応募枚数 400字詰換算5枚厳守。ワープロの場合は書式自由。

■応募方法 
○郵送の場合 原稿のほか、コピー1部を同封。
作品には表紙を付け、表紙にタイトルと氏名のみ併記(それ以外の個人情報は作品には書かないこと)。
別紙に〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を明記し、原稿と一緒にホチキスで右上を綴じる。
コピー原稿には別紙を添えないこと。
用紙はA4用紙を使用。横位置で使用し、縦書き。折らないこと。

○メールの場合 wordの添付ファイルで応募。
作品には表紙を付け、表紙にタイトルと氏名のみ併記(それ以外の個人情報は作品には書かないこと)。
別紙に〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を明記。
用紙はA4に設定。横位置で使用し、縦書き。

■応募条件 作品は未発表オリジナル作品とし、採用作品の著作権は公募ガイド社に帰属します。
作品は返却しません。
■審査員 清水義範(作家)
■賞 最優秀賞1編=賞金3万円 佳作9編=記念品

■応募先 郵送の場合 〒160-8549(住所不要)公募ガイド編集部「第7回小説の虎の穴」係
宅配便の場合 〒160-0002東京都新宿区坂町27-5-7F 公募ガイド編集部「第7回小説の虎の穴」係) 
メールの場合 tora@koubo.co.jp(件名「第7回虎の穴」)
■締切 6月30日(消印有効)

| | コメント (0)

BLOGリニューアル

公募ガイド社「作品添削講座」の連動ブログとして親しまれていた本ブログは、2012年6月より、月刊公募ガイド誌上で連載中の読者投稿ページ「小説の虎の穴」、および「創作童話がイッパイアッテナ」の両コーナーの作品発表ページとしてリニューアルされます。

「小説の虎の穴」も「創作童話がイッパイアッテナ」も誌上では最優秀賞を発表し、それ以外の佳作入選作9編は本ブログで発表します。

なお、投稿をしたい方は、発売中の月刊公募ガイド、または本ブログのカテゴリーにある「応募要項」をご覧ください。

月刊公募ガイドが書店になかったときは、ここからお申し込みください。1冊でも購入できます。

|

小説抄 其の50(最終回)「池波正太郎『日曜日の万年筆』」

「小説抄」を始める前に何本か試作を書いてみたのだが、あらすじに個人的な感想は挟めないし、推薦できない本を取り上げるのも変なので酷評するわけにもいかず、書き上がった原稿は「不朽の名作」だとか「私小説の金字塔」なんていう言葉が並ぶ、文庫本の裏表紙の劣化版かといったものだった。こんなもん読んでおもしろい? っていうか、書いているこっちがつまらないよ、なんて本人が思うものを人様に読ませちゃいかんだろうと思い、この方向で書くのはやめることにした。

元はと言えば作品添削講座のPRが目的で、しかし、毎回講座の案内では誰も読まないだろうから、受講する人が興味を持ってくれそうなコーナーを企画したわけだが、おもしろくというのがこれまた難しい。セオリーとしては「私」を書くのが一番だと思うが、個人のブログではないので個人的すぎることは書きにくいし、しかも、この「私」は不特定多数の鑑賞に堪える「普遍的な私」でなければならないから、そんな芸当、意識してできるかって話。結局、自分が思うように書くしかないわけだ。

『日曜日の万年筆』にこうある。「書く材料がないわけでもない。けれども、それがすべて、そのまま素直に、率直に書けるかというと、そうではないのだ。小説の中では、いくらでも裸の自分を見せることができるのに、随想となると、(どのように、裸の顔を見せたらよいのか……?)そこがわからない。自分の素顔を見せて、それが果して他人が読むにたえるものとなり得るだろうかと、おもうからだ」)。さすがにプロの作家ともなると、暴走しがちな書く自分を、読む自分が抑制している。

池波氏は「裸の自分を見せるのが恥ずかしいとか嫌だとかいうのではない」とも書いているが、裸の自分を書かざるを得ないときもあり、そんなときはやはり恥ずかしい。しかし、そうも言っていられないから、「誰も読んでないさ」と自分を騙し、壁に向かうような感覚で書く。すると自由に書けるが、そうして気まますぎることを書くと、もう一人の自分がたちまちブレーキをかけてくる。結果、「ごみ箱」行きになった原稿が数百。人様にお見せできるのは、その中のほんの一部に過ぎない。(黒)

|

TK-プレス 其の50(最終回)「骨のある人」

ドーハの悲劇があった年、井尻千男さんの連載を担当することになり、日経の下の「太陽樹」という喫茶店まで先輩とともに挨拶に行った。サッカーの話などして和やかな雰囲気だったが、政治・軍事の話になると、井尻さんは「今の日本人は腰ぬけだよ」と一家言ありそうな雰囲気を漂わせた。気骨があるというのはこういう人のことを言うのかと思いながら、その手の話に関心のない私は、井尻さんと先輩の話を聞いてうなずくだけの首振り人形と化していた。存在感、薄!

そのせいではないと思うが、数週間後、原稿の催促の電話をした際、「公募ガイドですが」とだけ言ってしまい、名前を言いそびれた。と、直後に「んだ?」と不機嫌な声。続いて「公募ガイドの誰だ!」と一括。慌てて名前を言ったが、時すでに遅し。「君はなぜ名前を名乗らん」と怒涛の勢いで説教が始まった。これが漫画だったら、私は椅子の上で3cmぐらいまで縮んで描かれていただろう。で、「一方的に言うのもなんだから、君の反論を聞こう。3時に『太陽樹』に来い」と。

理論武装をしなければと道々考え、井尻さんには「一度会っただけの個人名を言っても分からない可能性があるが、社名なら通じる。それに仕事を依頼しているのは会社であって個人ではない。主体は会社にある」というようなどうしようもない屁理屈を言ったのだが、これが火に油を注ぐ結果となった。「そもそもその考えが間違っている。会社に人格はない。俺は会社とは付き合わない」とまたまたお説教。でも、「俺は君個人と付き合いたいんだよ」と言われ、はっと我に返る。

その後、暴風雨は収まり、井尻さんは「会社の意見なんてない。すべては個人の意見。だから、雑報でも署名が必要。それが責任を生む。公募ガイドもそうしたらいい」と言い、最後に「今日は嫌な思いをしたと思うけど、この話は可能な限り人に話せ。そうすれば君の失敗が生きるから」と言われた。以来、この話は何十人と話したが、署名のほうは、一時は個人を識別する番号を情報記事に入れていたものの、その後は廃止され、なんだか井尻さんに申し訳ない気がしている。(黒)

|

小説抄 其の49「コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環』」

動物と接していると、つい話しかけてしまったりする。たいていはムツゴロウさんみたいにしゃあとか言ってじゃれているだけなのだが、愚痴を言ったりすることもある。高校3年の夏、ムツゴロウさんの奥さんと同じ名前の彼女のことを考えながら、庭先でぼうっとしていた。愛犬も隣でじっとしている。そのとき、「勉強もはかどらないし、彼女とも終わりそう。人生って」などと言ったのだと思う。「いいなあ、おまえは」と言うと、犬は「ふんっ」とそっぽをむいたのだった。

どういう加減か、犬は絶妙なタイミングでそっぽをむくことがあり、このときは「くだらないんだよ、人間は」と言われた気がした。動物がそんなこと思う? でも、今のはそういう表情だったぞ。そう言えば、手塚治虫も「動物には雑念がないから、本来、神に近い存在」って『ブッダ』の中で言っていたし、案外、すべて見透かしているのかもしれない。悟っているのかもしれない。尻尾を振りながら、内心では「超ウザ」なんて思っているのかもしれない(これはありうる)。

それで本屋に行き、動物関係の本を見ると、『ソロモンの指環』があった。解説を見る。なになに、「古代イスラエルのソロモン王は指環を使ってあらゆる動植物と話すことができた」。これ欲しい! 速攻で買う。で、指環を買ったわけじゃないけど、なんだかそんな気になって夢中で読んだ。犬について言えば、横になるとき、座ったり立ち上がったりを繰り返すのは、草原に棲んでいたときの名残、というのが印象的だった。いまだに草をならしているのか、おまえ、みたいな。

ほか、ガンは生まれて初めて見たものを親と思う、自分と似ている個体とつがいになる、しかし、同時期に生まれた子とはつがいにならないという実験結果が印象的だったが、つがいからの連想で、彼女とは結ばれるかなと思い、犬に「どう?」と聞くと、「?」てな顔で首をかしげた。今の「?」は「分からない」という意味? それとも「残念ですが」? 指環に聞いてみたかったが、ほどなく恋は終わり、その後、指環を手にすることも、ムツゴロウさんになることもなかった。(黒)

|

TK-プレス 其の49「小説のキャラクター」

エンターテインメント小説をおもしろくする要素にキャラクターがある。と、あるおじいさんに言ったら、「でしょうね、やはり戦車でしょうね」と言うので、なんか変だなと思っていたらキャタピラーと勘違いしていたという笑い話があるが、キャラクターとは個性的な性格、またはそうした人物を指す。“キャラ”とも言うが、報酬のことでも韓国のアイドルグループでもない。もちろん、キャラメルの略でもない……あ、つまらないこと書いてしまった。あとで消そうっと。

キャラクターと言うと、マンガ的な小説を連想してしまうかもしれないが、よくよく考えると、小説の主人公は誰かが作った人物だからすべてキャラと言える。いや歴史上の人物はそうではないだろうと言われそうだが、むしろ時代小説、歴史小説の人物こそ空想の産物だろう。歴史的背景があるから本当にそのような人物だったような気にさせられるが、性格なんて誰にも分からないから創作するしかないし、吉川英治が描いた宮本武蔵のように大胆に脚色された人物もいる。

ある友人は鎌倉幕府三代将軍の実朝を「ミアサ」と読んで「女子か!」とつっこまれていたが、小説であれば頼朝の娘だったと設定してもいい。“ありえない”と言われても、「だったら証拠写真を持ってこーい」と言えば済む。星座には「あれのどこが『こぐま』なの?」と思うようなものもあるが、ああいう力技もできるのだ。実際、くだんの友人は言った。「実朝は女だったかもしれないだろ、通称ミーサかもしれないだろ、帰国子女かもしれないだろ(それはないな)」

そのうち実朝女説がエスカレートし、わがままなお嬢様ということになった。「金塊和歌集を作る? 執権ちゃん、代わりにやって。何よ、黙っちゃって。無視? はいはい、自分でやりますぅ」なんて言ったりして? と誰かが言う。「『箱根路を我が越え来れば伊豆の海や』って、ちょっと字余りぃ。めんどいぃ。鷹狩の時間なのにぃ(振りまで付けるなよ)。あれ、沖のほうに小島君がいる! 『沖の小島に波の寄る見ゆ』っと」こうして一首できたと。そんなわけあるか!(黒)

|

小説抄 其の48「山際淳司『スローカーブを、もう一球』」

2001年9月30日、優勝が絶望的となった巨人の最終戦を見ていた。9回、引退を表明していた槙原が登板して観客がわいた。槙原は打者一人を打ち取って降板したが、球場は再び大歓声。これまた今期限りで引退する斎藤が出てきた。投球練習が始まる。う、あの球ではやばい。アンチ巨人の私だが、引退試合に痛打される斎藤の姿が浮かんで切なくなる。思えば天王山での五連投は長嶋監督のために殉死したようなもの。大車輪の活躍をした斎藤はもはや廃車寸前の車だった。

対する横浜のバッターは鈴木尚典だったか。初球空振りで観客はどよめく。意外といいな。2球目も空振り。球場はやんやの大喝采だったが、一瞬疑念がわく。わざと空振りしている? 観客は気づかないようだが、次の一球で疑惑は確信に変わった。やっぱりわざとだ。あっぱれ横浜、粋なことをする。これは相撲で言う人情相撲、というか、去りゆく先輩への敬意なのだと悟った。ところが、次打者を見て、これはやばい!と。そこにいたのは助っ人外国人選手ドスターだった。

腰掛けで来て稼いで帰ろうという選手は記録に執着する。日本に対する愛着もない。クールにドライに打つだろう。悪いな、斎藤、引退試合なのに。案の定、ドスターは当たれば場外かというフルスイング。ところがこれが当たらない。それもそのはず、バットとボールが20センチも離れている。もしかして? いやそうだ。そしてドスターは三振した。豪快に、故意に。敬意は国境をも越えるのか。やるじゃないか、アメリカ人。ちょっと感動したぞ!

後年、横浜の佐々木投手の引退試合では、逆に巨人の清原が代打で登場、見送ればボールという落ちないフォークに三振をする。それが故意だと分かっていても「最後は世界一のフォークに空振りでした」と涙ながらに言われては、わざとでしょ、なんて無粋なことは言えない。スポーツは小説になりにくいが、かくも人間が垣間見えるときがあり、廃車同然でも敗者ではなく……ああ、山際さんのことを語る前に紙幅が尽きた。この話の結末は「Going!」か「すぽると!」で!(黒)

|

TK-プレス 其の48「素材は同じなのに」

「ビートルズの有名な曲は名曲、それ以外は隠れた名曲」と思っているのだが、それほどのフリークであっても気に入らない曲のひとつやふたつはある。たとえば「Honey Don't」。いろんな歌手がカバーしている名曲らしいが、どうも好きになれなかった。ところが、『THE BEATLES LIVE at the BBC』という未公開音源によるアルバムに収録された「Honey Don't」を聞いて、こんなにいい曲だった? 信じられん、と思ってしまった。曲調も歌詞も同じなのに、まったく別物だ。

「Honey Don't」は、『Beatles For Sale』の中ではリンゴ・スターが歌っていた。1アルバムに1曲はリンゴがボーカルをするという契約があったためだが、本来はジョンの持ち歌だったらしい。だからライブ音源ではジョンが歌っているのだが、その声がなんとも耳に気持ちいい。さすがは1/fのゆらぎだ。特に終盤、ちょっと早口で「aha,Honey been steping around,aha」と言うあたりは耳だけでなく唇にも気持ちよくて、「きもてぃ~」(T・岡田)って叫びたいくらいだ。

ところで、五木寛之はこんなエッセイを書いている。深夜、原稿を書いていて、ふと窓の外のデジタル時計を見ると「1:11」。次に見ると「2:22」。しばらくしてまた見ると「3:33」。こんな時間に働いているのはおまえと俺くらいだから気が合うのかと思いながら、もしやと思って見ると「4:44」、まさかもうないだろうと見ると「5:55」だったそうだ。翌朝、氏が編集者に昨夜の出来事を話すと、編集者は「よかったですね、『6:66』を見ていたらやばかったですよ」と。

こうした体験は誰にでもあるようで、同じ話を書いている作家もいるが、その趣旨はいろいろ。人によってはまったく違うものになっている。その意味では文豪が扱った題材をカバー(リメイク)してもなんら問題ないわけだが、それ以上の出来にするとなると超難関。太宰は『御伽草子』の中で因幡の白兎は「十六歳の処女だ」と書いているけど、下手をすると1/fのゆらぎじゃなくて、1/fのパクリになってしまう。天才の業は憧れるものであって真似するものではないのかも。(黒)

|

小説抄 其の47「山口昌男『文化と両義性』」

今日(5.14)は土曜日だが、平日に時間がとれなかったので自宅でこの原稿を書いている。しかも、明日中に読まなければならない小説が1冊あって、やれやれだ。ところで、少し前に石崎洋司先生と話していて「小説ってなんすか」と聞いてしまい、そんな漠然とした質問、答えられるか! と自分に突っ込んでしまったが、先生は「読者をどこかに連れていくもの」と即答された。なるほど、小説の中の空間はひとつの異空間であって、私たちはひとときその世界にトリップする。納得。

人間の子は無能無力の状態で生まれてくるが、実は大人も同じ。文化的装置がなければ生きられない。生きられないから社会という巨大な保育器を作ったわけだが、外敵に襲われるでもなく、食料もあるのに、いやそれゆえに、安定した空間にいると鬱屈するらしく、私たちはときどき日常を離れ、自然の中で暮らしたいなんて思うが、そもそも自然の中では生きられないから社会という孤島を作ったのだから、自然の中に居続けることはできない。少なくとも文化的装置なしでは。

でも、日常を脱出することによって心を浄化させたいから、誰だって山に行きたい、海に行きたい、旅行に行きたいと思ってしまう。そうした生産と消費の循環は、昔は年に数回の祝祭でバランスがとれたが、生産過剰な現代はそれでは追いつかない。かといって年中、海だ山だ海外だと行っているわけにはいかないから、映画を観たり、小説を読んだりして、心だけ非日常に行ってまた戻ってくる。物語構造が基本的には行きて帰りし物語になっているのはそういうことだろう。

山口昌男はそうした内と外、日常と非日常、生と死、彼岸と此岸などの境界を「周縁」と言った。これは氏の造語だったはずだが、今ワープロで出てきた。ま、いっか。要するに小説を読むということは周縁に行くということだな。つまり、仕事(日常)で疲れたら小説(非日常)を読めばいいということになるが、でも、目の前にあるこの1冊は仕事なんですけどぉ~。だから、生産と消費のバランスが崩れた私は、仕事を放り出して飲みに行こうとしていたりする。ま、いっか。(黒)

|

«TK-プレス 其の47「事務局の独り言」